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近代フランスの歴史(2)三部会とバスティーユ襲撃

こんにちは! アラスカ4世です。前回革命前のフランスの社会について解説したのに続き、今回からフランス革命自体について解説していきます。

前回の記事はこちら

 

前回のおさらい

革命前のフランス王国には特権を持った第一身分(聖職者)、第二身分(貴族)と、それ以外の特権を持たない第三身分(平民)が住んでいました。
財政改革に反対する貴族の要求によって三つの身分の代表者からなる議会である三部会の開催が決まると、政治参加の機会を奪われ不公平な税負担に苦しんでいた平民たちは、政治意識に目覚め政治のあり方を変えなければならないと考えるようになりました。

平民の思惑

それでは現状に不満を抱いていた平民達は、具体的に何を求めていたのでしょうか?三部会開催の準備のために各身分の代表者から陳情書が提出されたのですが、これを読むとそれがわかります。

都市の第三身分(ブルジョワジーと呼ばれる比較的裕福な人々が多い)の主な陳情
・全国三部会の定期的招集と全議員の多数決による採決
・貴族の経済的特権と官職独占の廃止
・国内関税の廃止
・立憲政体
・選挙で選ばれた議会による税の承認
・税負担の公平化

農村の第三身分(富農などが多い)の主な陳情
・領主貢租、十分の一税、その他の重税の軽減
・徴税人、商人、不在地主などへの非難

このように、代議制の導入や税負担の見直し、官職の門戸開放などが望まれていました。その一方で多くの陳情書が学歴のある第三身分の中では裕福な人々によって書かれる傾向が強かったこともあり、官職売買やギルドの廃止、あるいは教会資産の没収や私有財産権の廃止などの抜本的な改革に対しては慎重な姿勢を示していました。

 

貴族の思惑

平民たちが全議員の多数決による採決を望んでいたのに対して、過半数の貴族は投票を身分ごとに行うべきだと主張しました。こうした場合、貴族の過半数と聖職者の過半数が議題に反対した場合に採決が否決されることになります。

この投票方式をどうするのか問題は非常に重要でした。下の図は、「きのこの山の製造を禁止すべきだ」という決議の採決が行われ、平民の主張通りに全議員での多数決が行われた様子です。

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図では大半の聖職者議員が決議に賛成し、貴族の意見が分かれ、大半の平民が決議に反対しています。全議員の半数が第三身分から選出されたため、この決議は主に平民の反対によって否決されることになります。

一方、貴族の主張通り身分ごとに投票が行われた場合は下の図のようになります。

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この場合は聖職者と貴族が決議に賛成し、平民が決議に反対したとみなされるため、2対1で決議は可決されることになります。要するに、投票方式をどうするのかによって平民が三部会の主導権を握るのか、貴族と聖職者が主導権を握るのかが決まることが予想されました。この投票方式をどうするのか問題の議論がこじれた結果、三部会は失敗に終わりました。

半数以上の貴族が身分別投票を主張した一方で、38パーセントの陳情書には、身分別投票ではなく全体の多数決にすることもやむを得ない、と書かれていました。
ただし、都市の第三身分の陳情書の73パーセントが投票において機会均等の原則を採用すべきだと主張していたのに対して、同じような考えの貴族は5パーセントのみで、多くの貴族は自分たちが政府の要職を独占しつづけるべきだと考えていました。
その一方で貴族の陳情書の89パーセントでは貴族が経済的特権を放棄してもよいと考えており、また多くの貴族は全国三部会の定期的な開催や選挙による議会の創設、個人の自由を保護するための法改正を望んでいました。
自由主義的な立憲政体を望んでいたという点で多くの貴族と平民議員の意見は一致していました。

聖職者の陳情書では、カトリック教会の地位の護持や教育管理の資格の維持などの現状維持を望む内容が多数を占めました。

こうした陳情書の提出が要望された事は農村部を含めたフランス各地での政治討論を加熱させ、諸々の改革が今すぐにでも実現され、領主貢租などの税がすぐに廃止されるのではないかという思い込みが広まり、人々が納税を留保する事態が頻発しました。

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こうして人々が政治意識を高めていき、しかも飢饉による民衆暴動が頻発する中、いよいよ三部会が開催されました。

 

行き詰まる三部会

1789年5月4日の三部会の開会演説で、国王ルイ16世と財務長官ネッケルは何らかの改革の必要性を曖昧な言い回しで認め、性急な行動は慎むべきだと警告したものの、貴族、聖職者と平民の間で意見が分かれていた投票方式をどうするのかという問題について言及しませんでした。

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このため財政改革に関する議事を進めることを望んでいた国王の希望とは裏腹に、投票方式をめぐる対立が激化し、ついに交渉が決裂しました。
貴族代表者たちが、身分別投票と身分別拒否権は最も重要な権利だと議決したのに対抗して、第三身分側は身分間の合意が得られない場合には第三身分の会議が単独で全代表者資格を認定すること、この会議を「国民議会」と呼ぶ事を議決しました。こうした過程で、それまで穏健だった第三身分の議員達は絶対的な王権や貴族の特権を問題視するようになっていきました。

こうした激しい対立によって権威を脅かされた国王ルイ16世は、王妃マリー・アントワネットらの圧力に屈して改革に反対するようになってしまいました。そして身分別に投票を行わなければならないとする演説を行い、議会に欠席した財務長官ネッケルを罷免しました。
大部分の聖職者の議員と一部の貴族の議員が国民議会に合流するに至り、ルイ16世は武力による事態の打開を決意します。そして軍隊をパリ周辺に集結させるよう命じました。

バスティーユ襲撃

この頃国内では、政府への信頼が失墜していました。飢饉によって飢えた貧民は暴動を起こし、食料の買い占めを行っているように見えた商人や投機家、それを保護しているとされる政府を非難するようになりました。さらには食料の値上がりは三部会の活動を阻止しようとする貴族の陰謀のせいだという考えも広まりました。都市の中産階級もまた、こうした混乱を収拾できない政府を批判するようになりました。

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中産階級の平民たちは、貴族と貧民の両方に対して脅威を感じていました

こうした中、政府が軍をパリに集結させはじめ、民衆やブルジョワジーから人気の高かった財務長官ネッケルが罷免されたのを引き金に、1789年7月12日にパリで暴動が起こりました。
パリのブルジョワジーたちは王国政府からの自衛民衆の暴動をおさえ秩序を維持することを目的に民兵を組織し、武器と弾薬を調達しようとしました。7月14日に弾薬が貯蔵されているバスティーユ監獄に向かった民兵隊や群衆と監獄の守備隊との間での弾薬の引き渡し交渉が難航している間に銃撃戦が始まりました。最初は戦闘に慣れた守備隊が優勢だったものの、国王軍から民兵隊の側に離反する兵士が相次いだことから形勢が逆転し、守備隊が降伏しました。これがフランス史のターニングポイントとして知られるバスティーユ襲撃事件です。
パリ市内の戦いを制した市民達は、常設委員会と市民軍(後の国民衛兵)を創設し、国王による支配が崩壊しました。

 

地方への波及

こうした出来事が地方に伝わると、フランス国内の各地が大混乱に陥りました。飢えに苦しみ、貴族による飢饉の陰謀を恐れていた農民たちは武装し、山賊が暴れているという噂に怯えながら貴族の城を略奪しました。この混乱を「大恐怖」と呼びます。
これに対し地方でもパリと同じような常設委員会と民兵隊が組織され、やがて秩序が回復しました。しかし国王と貴族たちには秩序を維持する能力がないことが明らかになり、国王の権威は完全に失われました。

 

まとめ

今回は三部会による改革が失敗に終わりバスティーユ襲撃が行われ、革命が始まるまでの経緯について解説しました。部分的には見解が一致していたはずの貴族と平民が対立してしまったこと、情報が錯綜する中で飢えや政府軍や暴動などから身を守るために人々が武器を手に取ったことなどが今回の要点です。
次回は、実際に革命がどのように進展していったのかを解説します。近日中に公開予定です。お楽しみに。