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近代フランスの歴史 1、革命前のフランス社会

こんにちは! アラスカ4世です。

このブログをずっと放置してしまっていましたが、Twitterなどでフランス革命について言及している人々が増えており、フランス史について簡潔に解説した読み物が求められているのではないかと思い、これを書く事にしました。

 

このシリーズの趣旨

このブログでは、1789年に起こったフランス革命の前夜から第三共和制の政局が一応安定した1900年ぐらいまでのフランスの主に政治史を広く解説していこうと思います。ただし筆者はフランス革命にものすごく詳しいというわけではないし、フランス革命について解説した読み物は他にもたくさんあると思われるので、フランス革命についてだけもっと細かく知りたい人は他の何かを読む事をおすすめします。

 

少し古いですが、楽しく読めると思います。

 

このブログではもっと広い時代を扱い、フランス人が革命の結果を踏まえてそれ以降の政治をどのように行い、現在の共和制国家を作り上げていったのかに重点を置いて解説していくつもりです。なので、フランス革命自体についてはなるべくあっさり解説していきます。今回は、フランス革命前のフランス社会がどのような人々によって構成されていたのかをみていきます。

 

フランス王国の成り立ち

5世紀に西ローマ帝国が滅亡し、西ヨーロッパではそれまでの社会の仕組みの多くが崩壊し、大混乱に陥りました。この混乱をなんとか収拾し、西ヨーロッパの多くの地域を支配したのがフランク王国という国でした。
フランク王国は戦いに長けた貴族を活用することで戦争に勝ち、キリスト教会とその聖職者を庇護することで多くの人々に支配を納得させました。

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それまでの部族とフランク族のイメージ



こうしてカール1世(シャルルマーニュ)は西ヨーロッパの大半を支配することに成功しました。

それから約1000年が経ちました。

フランク王国は東西に分裂し、東側のほうの国は神聖ローマ帝国と名乗り、一時は強大な国になりましたがその後は権力が形骸化してドイツのあたりの国々の曖昧な連合体に成り下がってしまいました。
一方西側のほうのフランク王国はいつのまにか訛ってフランス王国と呼ばれるようになりましたが、百年戦争ユグノー戦争などの危機を乗り越え、ヨーロッパ最大級の国として存続していました。これが皆さんのよく知っているであろうフランス王国です。

 

三部会とフランス王国の身分と階級

当時のフランス王国には、3つの身分がありました。第一身分の聖職者と第二身分の貴族、そして三身平民でした。このうち第一身分と第二身分は免税特権を持っていました。これまでずっとそうだったのだから当然ですね。しかしフランス王国の財政は悪化していたので、時の国王ルイ16世らはこの免税特権を廃止し、貴族らに課税することで財政を再建しようとしました。そしてこれに反対する貴族の要求に応じる形で、3つの身分の代表者による議会である三部会が開催されます。この三部会での議決方法をめぐる議論がこじれた結果議場が閉鎖され、ルイ16世は議会を鎮圧するために軍をパリとヴェルサイユ周辺に集結させるよう命じました。そして色々な噂が流れた末に蜂起したパリ市民がバスティーユ監獄を襲撃し、争乱が地方にも飛び火し、フランス革命が始まりました。

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要するに身分間の利害対立が革命の引き金になったわけですが、どの身分も一枚岩だったわけではないし、全ての貴族が改革に反対していたというわけでもないです。それぞれの身分の置かれていた状況についてもう少し詳しく解説していきます。

 

第一身分:聖職者

そもそも三部会は、1302年に時のフランス王フィリップ4世ローマ教皇ボニファティウス8世と対立した際に国内の支持を得るために開催されたことがきっかけで始まりました。教皇と対決する以上、国内のカトリックの聖職者の支持を集め、自らが宗教的に正しいということを証明する必要がありました。三部会によって聖職者を含む国内の支持を固めたフィリップ4世は教皇ボニファティウス8世を捕らえ、ボニファティウス8世は三週間後に憤死しました(アナーニ事件)。  

 

この経緯について詳しく知りたい人はこちらの記事も読んでみてください

 

こうしてフィリップ4世が教皇権に対する王権の優位を確立した後も聖職者たちは大きな影響力を持ち続けていました。フランスの強国化に努めた1624年から1642年にかけての宰相、リシュリュー枢機卿は、その中でも最も有名な聖職者です。
ただし、フランス革命までの政治の主役は貴族で、革命以降の政治の主役も平民でした。  

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聖職者たちはノートルダム大聖堂のような複雑な建物を建てるだけの力を持っていました

第二身分:貴族

貴族は元々は特権と引き替えに主君のために戦う、日本の鎌倉時代の武士と似た身分でした。フィリップ4世時代のフランス王国では特に諸侯と呼ばれる大貴族の力が強く、フランス王国の半分以上の土地は自治権を持った諸侯によって間接統治されていました。隣の神聖ローマ帝国では諸侯の力があまりにも強くなったため、結局は諸侯に国としての主権を認めざるを得なくなった結果帝国が形骸化してしまいました。

この記事を読むとより詳しい経緯がわかります。

 

一方フランスでは中央集権化を目指す王たちの試みや百年戦争などのゴタゴタの結果、貴族の影響力をある程度削る事ができました。弓や騎馬などと違って簡単な訓練だけで扱えるようになる銃が普及したことも貴族の軍事的な重要性を下げました。それでも貴族が依然として大きな影響力を持ち続けた理由の一つは、平民から貴族になる方法があることでした。

 

きみも貴族になれる!

貴族の地位は世襲されるので、貴族になる一番簡単な方法は貴族の子として生まれることでした。しかしたとえ平民に生まれたとしても、1604年に制定されたポーレット法に基づいて政府や貴族などが販売する官職を購入する事で貴族になることができました。正確に書くと貴族の地位は一部の官職にしか付属してきませんでしたが、官職を買う事で免税特権や社会的地位が得られるため、成功した平民は官職を買ってエリートになり、できれば貴族に成り上がることを目指すようになりました。こうして1789年までに7万もの官職が売却され、国王は売却による収入を手に入れ、しかも優秀な平民を官僚として登用する事ができました。

こうして成功し、貴族として官僚、特に司法に携わるようになった貴族たちは法服貴族と呼ばれ、王国の最高司法機関である高等法院の要職を占めることで大きな影響力を持ちました。
一方昔ながらの軍務に従事していた貴族たちは帯剣貴族と呼ばれ、こちらも軍の指揮官などの要職を独占していました。
こうした貴族たちは、貴族になろうとしている平民の上層の人々とある程度利害を共有しており、名士層と呼ばれるエリートの集団を形成していました。
そして免税特権を手に入れ、官職と同じように投資商品として売られていた領地からの収入で安楽に暮らし、息子に貴族の地位を継がせ、貧困に苦しむ農民たちから憎まれ続けていました。めでたしめでたし。

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しかし18世紀になると貴族が増えすぎたため、法服貴族たちは新たに官職を売りに出す事に反対するようになります。政府が販売する官職の数を減らした結果、富裕層の平民たちが貴族になるチャンスが少なくなり、彼らが貴族を敵視する傾向が強くなっていきました。

 

ちなみに現代では5000円弱で爵位を購入し、シーランド公国という国の貴族になることができるようです。

 

当時は官職に就けるだけの能力と貴族からの信用を得て、もっとずっとたくさんの金を払って官職と領地を買う必要がありました。

 

三身分:平民

貴族や聖職者のような特権を持たない人々は全て平民と呼ばれていました。平民の中には裕福な商人や専門職に就く人、年金生活者や地主なども、人口の大多数を占める貧しい農民なども含まれていました。フランス革命以後の社会で大きな力を持ち、共産主義者から敵視されている資本家も、この時点では第三身分にカテゴライズされています。フランス革命の指導者アベ・シエイエスは三部会開催に際して『第三身分とはなにか』というパンフレットで、こう書いています。「第三身分とはなにか? すべてである。第三身分はこれまでいかなる政治的地位を占めてきたか?無である。それではなにを要求するのか?なにものかになることを」

それにもかかわらず政府の要職を貴族に独占され、不公平な税の負担に苦しんでいた彼らは、三部会の開催によって政治参加の機会を得て、国を変革する決意と期待感を胸に、三部会の議場に向かいました。

 

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貴族と聖職者に虐げられる平民の風刺画



農民

商人、職人、非熟練労働者などを含む第三身分の中でも特に数が多く、フランス革命において独特の役割を果たしたのが農民でした。人口の四分の三を占めていた農民たちの多くは、職業選択の自由がない東ヨーロッパ諸国の農奴と比べれば恵まれていたかもしれませんが、借地代を地主に納め、税を領主と国の両方に納め、領主裁判権とその他諸々の特権を持った領主によって搾取され続けていました。16世紀のユグノー戦争が終結して以来人口が増え続けていたフランスでは、一人一人の農民が利用できる土地が少しずつ減ってきており、そのうちの一部は勃興しつつあった工場制手工業(マニュファクチュア)での労働で生計を立てようとしましたが、いずれにせよ困窮していました。

 

まとめ

今回は革命前のフランス社会について解説していきました。革命前のフランスの諸々の制度が長い歴史の中で形成されていったこと、そしてそれ故に時が経つにつれ社会の歪みや閉塞感が顕在化していったこと、そして身分によって法的な待遇が大きく異なっていたことを理解してもらえると幸いです。個人的には、こうした状況から唐や明などの中国の歴代王朝の末期を連想してしまいます。戦後75年しか経っていない日本社会ですらかなりの閉塞感に満ちているのですから、1000年も続いたフランス王国の閉塞感はその比ではなかったのでしょう。もし仮にフランス革命を起こさずにフランス王国を近代化する余地があったとしても、かなり思い切った改革が必要になったと思われます。

次はフランス革命それ自体を解説する記事を近日中に公開する予定です。なるべく早く公開したほうが多くの人に読んでもらえると推測しているので、可能なら2~3日中に公開します。お楽しみに。それと、ご意見、感想、間違いの指摘、その他諸々お待ちしております。