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ピピパポピのポパピ はてなダイアリー編

イラストを用いて楽しく歴史を紹介するブログです

騎士団について解説する 2、遷ろう聖ヨハネ騎士団編

中世 十字軍 中東 歴史 近世 ヨーロッパ

こんにちは。アラスカ4世です。騎士団シリーズ第二回目の今回は、聖ヨハネ騎士団について解説していきます。

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前回はテンプル騎士団の記事を書きました。次回はチュートン騎士団の記事を書く予定です。前回はテンプル騎士団の固有事例だけでなく、そもそも騎士団とは何か?みたいな事を書いたので、読んでない方は読むと今回の記事の内容をより簡単に理解できるようになるかもしれません。読んでみることをオススメします。

設立当初

1023年、イタリアの港町アマルフィの商人がエルサレム洗礼者ヨハネ修道院の跡に病院を兼ねた巡礼者宿泊所を設立しました。1099年に十字軍がエルサレムを占領した後の1119年、この宿泊所は教皇によって騎士修道会として承認され、宗教騎士団としての活動を始めました。こうして発足した聖ヨハネ騎士団エルサレム王国などの十字軍国家を守るための戦いで活躍する一方で、病院や宿泊所の運営も熱心に行いました。そのため、「ホスピタル騎士団」とも呼ばれていました。

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十字軍国家の滅亡後

聖ヨハネ騎士団や前回取り上げたテンプル騎士団などの奮闘にもかかわらず1187年にエルサレム、1291年にアッコンが陥落してエルサレム王国が滅亡、カトリック勢力は中東における足がかりを失ってしまいました。
前回取り上げたテンプル騎士団はこれによって聖地の防衛という存在意義を失い、資産を欲していたフランス王フィリップ4世によって1307年に粛清され、壊滅してしまいました。一方聖ヨハネ騎士団は、キプロス島を経て1309年にロードス島に移り、ここでイスラム教徒との戦いを続けることにしました。

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14世紀ごろの地中海東部の地図です。十字軍が失敗に終わり、イスラム教徒の勢力が拡大しています。しかしキプロス島ロードス島ギリシャなどは今のところキリスト教徒の手にあります。

ロードス島

当初中東に3つあった大きな騎士団のうち、テンプル騎士団は壊滅、チュートン騎士団は活動の場を東ヨーロッパに移しました(詳しくは次回の記事で書きます)。このため聖ヨハネ騎士団は中東でイスラム教徒と戦う唯一の騎士修道会となり、ヨーロッパ諸国では多くの寄進を得られるようになりました。また1307年に膨大な資産を持っていたテンプル騎士団が解体された時は、資産の多くを聖ヨハネ騎士団が継承することになり、金回りが良くなりました。そして海軍や海賊としての活動を行い、イスラム教徒の商船を悩ませました。

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この頃、急速に勢力を伸ばしつつあったイスラム教国がオスマン帝国でした。ロードス島に隣接するアナトリア半島(現在のトルコ)で勃興した彼らはバルカン半島にも進出し、14世紀後半にはビザンツ帝国を従属させるに至りました。1402年にティム―ル帝国とのアンカラの戦いで敗れて一度衰退したものの、勢力を立て直して更なる拡大を続け、1453年にはビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを攻略します。これで古代から続いてきたローマ帝国が完全に滅亡し、中世から近世に至る歴史上のターニングポイントの一つになります。

オスマン帝国領に隣接するロードス島に拠点を構え、イスラム教徒との聖戦を標榜し海賊活動を行う聖ヨハネ騎士団は当然、これとの対決を強いられます。オスマン帝国は1480年にロードス島を攻撃しますが、聖ヨハネ騎士団は撃退に成功しました。
オスマン帝国は1522年に20万人の大軍で再度攻めてきて、今度は勝てませんでした。聖ヨハネ騎士団は、ロードス島オスマン帝国に明け渡すという条件で休戦します。

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マルタ島

ロードス島を失った聖ヨハネ騎士団は、ハプスブルク家からシチリア島の沖にあるマルタ島を借り受け、ここを本拠にしました。ハプスブルグ家の当主で神聖ローマ皇帝兼スペイン王のカール5世とは、島を借りる対価として毎年鷹一羽を献上するという契約を結びました。

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15世紀頃の南ヨーロッパのざっくりした地図です。聖ヨハネ騎士団マルタ島を貸与したハプスブルク家のカール5世は神聖ローマ皇帝、スペイン王、オーストリア大公、ブルゴーニュ公などを兼任し巨大な勢力を構築しましたが、オスマン帝国フランス王国などと対立していました。


1565年にはオスマン帝国がまた攻めてきますが、防衛に成功しました。1571年にはレパントの海戦が行われ、オスマン帝国の艦隊がスペイン、ジェノヴァヴェネツィア教皇領、聖ヨハネ騎士団などのカトリック教国の連合艦隊と交戦し、カトリック諸国側が大勝しました。急速に版図を拡大し、ヨーロッパのキリスト教諸国にとっての重大な脅威と見なされてきたオスマン帝国は停滞期に入り、イスラム教国からキリスト教世界を守るために戦ってきた聖ヨハネ騎士団は存在意義と力を減じていくことになりました。

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聖ヨハネ騎士団マルタ島から追い出したのは、フランスのナポレオンでした。1798年、エジプト遠征の途上でナポレオンはマルタ島を占領し、その後エジプトに向かいました。ナポレオンは一時はエジプトの主要部を征服したものの、イギリスとのアブキール湾の海戦に敗れて制海権を失い、マルタ島イギリスによって占領されました。

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1802年に英仏間でアミアンの和約が結ばれ、講和に際してイギリスはマルタ島聖ヨハネ騎士団に返還する事が取り決められたのですが、この協定は履行されず、1803年に英仏は戦争を再開しました。そしてマルタ島は地中海の戦略上の拠点としてイギリスに支配され続け、第二次世界大戦中にはイタリアとドイツからの激しい攻撃に晒されました。1964年に独立し、現在はマルタ共和国になっています。

聖ヨハネ騎士団のその後

マルタ島を失った聖ヨハネ騎士団は領土を持った国ではなくなりましたが、現在でも医療団体としての活動を続けています。また一部の国々から「主権実体」として承認されており、ローマにある騎士団本部はイタリア政府によって治外法権が認められています。

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遷ろう聖ヨハネ騎士団編はこれで終わりです。聖ヨハネ騎士団は大きな勢力を誇った騎士団ではあるのですが、フィクション作品などにはテンプル騎士団チュートン騎士団ほど頻繁には登場しないと思います。現在も存続しているのであんまり勝手な事は書けないし、チュートン騎士団ほど外連味が強くないので。逆に、異端認定されて滅びた経緯を持つテンプル騎士団はなんでも好き勝手に書けるので便利ですね。
その代わり、聖ヨハネ騎士団塩野七生の書いたロードス島攻防記という本で詳しく取り扱われています。興味のある人は読んでください。 

ロードス島攻防記 (新潮文庫)

ロードス島攻防記 (新潮文庫)

 

 

さて、次回はチュートン騎士団編を予定しています。チュートン騎士団、別名ドイツ騎士団は東欧で異教徒やスラブ人と戦い続けたドイツ人の皆さんです。プロイセンの原型になった存在でもあり、中二心をくすぐられるというか、ドイツの中二成分の多くはこの騎士団が元になっているいえます。次回もお楽しみに!