わかる!三十年戦争 1、オーストリア/ハプスブルク家編
大変久しぶりの更新になってしまい申し訳ありません。アラスカ4世です。
これから数記事に分けて、三十年戦争という17世紀のヨーロッパで起きた戦争について解説していきます。今回は、参戦国の一つであるオーストリアの視点からこの戦争について解説していきます。
三十年戦争とは?
1618年から1648年までのヨーロッパで行われていた戦争です。宗教問題をきっかけに、主に現在のドイツにあたる地域で戦争が続き、オーストリア、スウェーデン、デンマーク、フランス、スペイン、イングランドなどの多くの国が戦いました。主権国家体制と呼ばれている現代の国際関係が確立するきっかけになった歴史上重要な戦争ではあるのですが、関わった国々の利害関係が複雑で、わかりにくい戦争です。なので、これから何回かに分けてなるべくわかりやすく解説していきます。今回は、参戦国の一つオーストリアの視点から、三十年戦争について解説していきます。
オーストリアってどんな国?
オーストリアという国は、現在でも存在しています。東欧にある人口840万人ぐらいの小国で、よくオーストラリアと間違えられたりします。
しかし三十年戦争のころのオーストリアは三十年戦争の主役と呼んでも良いぐらい重要な存在で、スウェーデンやフランスなどの周辺諸国と三十年間も戦い続けられるだけの国力を持っていました。なぜかというと、オーストリア大公国の大公は神聖ローマ帝国という国の皇帝を兼ねていたからです。
神聖ローマ帝国について
神聖ローマ帝国は、現在のドイツ、オーストリア、チェコなどにあたる地域を治めていた国家です。広大な地域を支配しており、オーストリア大公国もその一部でした。しかし広大すぎたため皇帝の権力が全国に行き渡らず、各地の領主や都市などが好き勝手に振舞うようになっていました。領主と皇帝は、とくに宗教の面で対立しがちでした。
宗教改革と神聖ローマ帝国
神聖ローマ帝国やその周辺の国々では、もともとキリスト教のカトリックという宗派が信じられていました。カトリック教会は政治工作のための金を調達するために免罪符という紙を民衆に売りつけるなど、腐敗する傾向がありました。
マルティン・ルターという神学者がこれを批判したことをきっかけに宗教改革が始まり、ドイツの半分以上の地域ではプロテスタントという宗派が信じられるようになりました。その一方で、オーストリア大公=神聖ローマ帝国皇帝や一部の地域はカトリックを信じ続けました。両者は戦争などを経てアウグスブルクの和議を結び、領主はカトリックとルター派(プロテスタントの一派)のうち、どちらを信仰するか選べるようになりました。領主に支配される領民は、領主と同じ宗派を信じなければならないことになっていました。
ボヘミアの反乱
カトリックとプロテスタントの間で一応の平和が保たれていた神聖ローマ帝国でしたが、ある出来事がきっかけで内戦が始まります。それは、ボヘミアという地域の反乱でした。
ボヘミアは現在のチェコにあたる地域で、神聖ローマ帝国の一部でした。1526年にオーストリアのハプスブルグ家がこの地域を相続し、直接治めるようになりました。しかし独自の文化を持っており、プロテスタントの信仰が盛んだったボヘミアでは融和政策が行われていました。
1617年にハプスブルグ家のフェルディナント2世がボヘミア王に即位すると、状況が変わってしまいます。熱心なカトリックの信者だった彼はボヘミアのプロテスタントを弾圧したため、プロテスタントを信じるボヘミアの貴族たちが反乱を起こしました。
反乱を起こした貴族たちは神聖ローマ帝国内のプロテスタントの諸侯らとプロテスタント同盟を結成して連携し、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世がその盟主になりました。
これに対してオーストリア側はカトリック諸侯によるカトリック連盟と協力してボヘミアに兵を送り、白山の戦いを経てボヘミアの反乱軍を鎮圧しました。
プファルツも、オーストリアと同じハプスブルク家で同盟関係にあったスペインによって占領され、プロテスタントによる反乱は一旦鎮圧されました。
オーストリアを警戒する周辺諸国
オーストリアはボヘミアの諸侯の土地と財産を没収し、プファルツ選帝侯の領地をバイエルン公に与え、神聖ローマ帝国国内での権力基盤を強化しました。
神聖ローマ帝国の周辺の国々は、この動きを警戒しました。もしこのままオーストリアが権力を強化して神聖ローマ帝国を統合してしまうと、強力な隣国が誕生し、自国の存続が危ぶまれるようになるからです。
フランス、オランダ、イングランド、スウェーデン、デンマークといった国々がハーグ同盟を結び、オーストリアへの対抗を試みました。
デンマークvsオーストリア
これらの国々のうちデンマークが1625年に直接参戦し、フランスやイングランド、スウェーデンがこれを支援しました。しかしデンマーク軍は傭兵同士での主導権争いの結果、三つの集団にわかれて別行動をとることにし、その結果各個撃破されてしまいました。
戦いに負けたデンマークは1629年にリューベックの和約を結び、三十年戦争から手を引きました。
イングランド
イングランドは最初、プロテスタント陣営に資金を提供したり軍を派遣したりするなど支援を行っていました。しかしフランスと対立したり財政が悪化したりした結果1630年に三十年戦争から手を引きました。イングランド王チャールズ1世は財政を再建しようとしましたが、議会と対立して1642年に清教徒革命が勃発、1649年に処刑されてしまいました。
スウェーデンvsオーストリア
デンマークを撃退したオーストリアは、神聖ローマ帝国内での権力をさらに強化しようとしましたが、プロテスタントだけでなくカトリックの諸侯の反発まで受けるようになってしまいました。
ここでスウェーデンがプロテスタント側に立って参戦しました。スウェーデン軍は国王グスタフ2世アドルフの下で軍事改革を行っており、新しい装備や戦術、軍制を有する精強な軍隊でした。さらにザクセン選帝侯、ブランデンブルク選帝侯がスウェーデンと同盟を結んだため、オーストリア側を圧倒しました。
しかしスウェーデン軍の快進撃は、リュッツェンの戦いの最中に国王グスタフ2世アドルフが戦死してしまったせいで止まりました。後継者の王女クリスティーナにはグスタフ2世のような指導力はありませんでしたが、フランスをプロテスタント陣営に引き入れて直接参戦させることができたため、プロテスタント陣営は戦い続けることができました。
フランスとの戦い
強大な国力を持つフランスは直接参戦するとスウェーデンと連携しながらオーストリアに対する反撃を続けました。同盟国バイエルンを占領され、ボヘミアの首都プラハを攻略され、敗勢が明らかになったオーストリアは、講和条約を締結することにしました。
ボヘミアの反乱が始まったのが1618年、デンマークの参戦が1625年、スウェーデンの参戦が1630年、フランスの参戦が1635年、講和条約のウエストファリア条約が結ばれたのが1648年なので、戦争終結までに30年かかりました。
ウエストファリア条約と、オーストリアが失ったもの
三十年戦争の最中、神聖ローマ皇帝位を持つオーストリアは、神聖ローマ帝国国内での権力強化を試みていました。もしこれが成功すれば、最終的にはオーストリア=神聖ローマ帝国はドイツ一帯を領有する大国になっているはずでした。
そんなことになったら神聖ローマ帝国各地の領主たちは権力を失ってしまうし、強大な隣国が誕生したら周辺の国々にとっても危険なので、彼らはオーストリアが権力を強化するのを止めるべく動きました。
そしてウエストファリア条約では神聖ローマ帝国内の領邦の主権と外交権が認められました。それまで少なくとも形の上では神聖ローマ帝国皇帝の家臣だった彼らは独立した主権国家として振る舞うようになり、オーストリアによる神聖ローマ帝国の集権化の試みは頓挫しました。
オーストリア大公はその後も神聖ローマ皇帝の地位を持ち続け、神聖ローマ帝国も存続したものの、神聖ローマ帝国に関する実権のほとんどを失ってしまいました。フランスの哲学者ヴォルテールはこの状況を、『神聖でなければローマでもなく、帝国ですらない』と評しました。
その後のオーストリア
三十年戦争によって神聖ローマ帝国諸邦に対する影響力を失ったオーストリアは、オーストリア、ボヘミア、ハンガリーなどの直轄領の支配を強化し、神聖ローマ帝国の外に領土を拡張するように方針を転換しました。1699年にオスマン帝国からハンガリー南部などを獲得するなど、地域大国としての地位を維持し続けました。
しかし支配層を占めるドイツ人が人口の四分の一に過ぎない多民族国家になってしまったことから、セルビア人やチェコ人などによる民族運動を抑えきれなくなり、第一次世界大戦末期の1918年に崩壊しました。
皇帝カール1世は退位し、チェコスロバキアやハンガリーなどの国々が独立し、残った地域が現在のオーストリア共和国になりました。
まとめ
神聖ローマ皇帝を兼ねていたオーストリア大公は神聖ローマ帝国の集権化を試み、プロテスタントを抑圧し、諸邦の権力を制限しようとしました。しかしこれは諸邦や周辺諸国の警戒と抵抗を招き、スウェーデンやフランスの参戦を引き起こしました。その結果軍事的に劣勢になったオーストリアは集権化をあきらめることを余儀なくされ、三十年戦争が終わりました。
オーストリアと戦ったスウェーデンやフランスなどの国々は、神聖ローマ帝国内の領土が欲しい、プロテスタントの信仰の自由を守りたい、敵国がむかつくなどの国ごとに異なった事情があって参戦したのは事実ですが、オーストリアの脅威を取り除きたいと考えていた点においては利害が一致していました。
以上、長くなってしまいましたがオーストリア編の解説を終わります。読んでくれてありがとうございました。次回はこの三十年戦争を、スウェーデンの立場から解説してみたいと思っているので、引き続き読んでもらえると嬉しいです。次回は、政治よりも軍事に関する話を多くする予定です。よろしくお願いします。