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ピピパポピのポパピ はてなダイアリー編

イラストを用いて楽しく歴史を紹介するブログです

アメリカ外交の歴史~孤立主義と理想主義~

アメリカ イラスト 歴史 近代 通史

こんにちは。アラスカ4世です。

2016年11月9日のアメリカ大統領選挙ドナルド・トランプ氏が当選しました。彼はアメリカの外交の方向性を大きく変えようとしていると見られており、日本もその影響を受ける事が予想されています。

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2016年11月9日現在、アメリカ合衆国は「世界の警察官」などと呼ばれ、世界各地への介入を行っています。しかし、19世紀の半ばまではそうではなく、ヨーロッパなどでの戦いに介入しない方針を取っていました。それでは、アメリカ合衆国はどのような経緯で「世界の警察官」になったのでしょうか。アラスカ4世のイラストと一緒に見ていきましょう。この記事は、今後の国際情勢を考える上でのヒントになるでしょう。

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1823年、当時のアメリカ大統領ジェームズ・モンローは、次のような内容の年次教書を発表しました。

・ヨーロッパ諸国の紛争に干渉しない。
南北アメリカに現存する植民地や属領を承認し、干渉しない。
南北アメリカの植民地化を、これ以上望まない。
・現在、独立に向けた動きがある旧スペイン領に対して干渉することは、アメリカの平和に対する脅威とみなす。

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要するに、アメリカ合衆国南北アメリカでの外交問題にだけ関わっていきましょう、と提案したわけです。1890年ぐらいまでのアメリカは、この教書の方針に基づいて外交を行いました。これをモンロー主義と呼びます。

当時の南北アメリカ大陸は、独立を果たしたアメリカ合衆国以外のほとんどの地域がヨーロッパ諸国の植民地でした。スペイン、ポルトガル、イギリスは、特に大きな植民地を持っていました。

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このうちスペインとポルトガルは1803年から1815年にかけてのナポレオン戦争で弱ってしまったため、その植民地である中南米では独立運動が激化していました。モンローが教書演説を行う40年ほど前にイギリスから独立したアメリカ合衆国はこの動きを支持し、ヨーロッパの干渉を防ごうとしました。結局、多くの植民地が独立し、メキシコやブラジル、アルゼンチンなどの国々が誕生しました。

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アメリカ合衆国南北アメリカでの問題には干渉するものの、ヨーロッパでの戦いには関わらないことにしました。そもそも当時のアメリカ合衆国は独立したばかりで規模が小さく、大西洋を隔てたヨーロッパ諸国に大規模に干渉できるほどの国力がありませんでした。

ヨーロッパ諸国からの干渉を最小限に抑えたアメリカは、西部開拓によって領土を増やし、ヨーロッパなどからの移民によって人口を増やし、国力を増大させていきました。そして1898年にスペインとの米西戦争が発生してキューバを独立させ、アジアにあるフィリピンなどを植民地にしたことでこの方針は放棄されますが、それでもアメリカ合衆国南北アメリカ大陸以外の問題に介入したがらない傾向は続きました。

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1914年6月、オーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が銃撃され、これをきっかけに第一次世界大戦が始まりました。

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オーストリア=ハンガリー帝国、ドイツ、オスマン帝国などの中央同盟国と、フランス、イギリス、ロシア、セルビア、イタリア、ベルギー、日本などの連合国との間で、かつてない規模の戦闘が行われましたが、アメリカ合衆国は中立を宣言し、多くの国民はこれを支持しました。

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1915年、ニューヨークからイギリスに向かっていた豪華客船ルシタニア号をドイツの潜水艦がアイルランド沖で沈め、アメリカ人128人を含む乗客1198人が亡くなりました。アメリカ国民はドイツに対して激しく怒りましたが、政府は抗議文を送るだけにとどめました。これをルシタニア号事件と呼びます。

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1917年に、ドイツの外務大臣ツィンメルマンはメキシコに電報を送りました。その内容は、もしアメリカ合衆国第一次世界大戦に参戦する場合、ドイツはメキシコと同盟を結ぶ用意があり、ドイツとメキシコが大戦に勝った暁にはアメリカ領のテキサス州ニューメキシコ州、アリゾナ州をメキシコに譲渡するというものでした。さらにドイツはメキシコにドイツと日本の仲裁と、日本の対米参戦を促すように依頼しました。

イギリスはこの電報を傍受し、アメリカに内容を伝えました。しかし多くのアメリカ人は当初、この電報を信じませんでした。アメリカを参戦させるための偽の電報だと考えたのでした。

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この流れは、電報についてツィンメルマンが演説を行った事で変わりました。なんとツィンメルマンは、電報が本物だという事を公表したのでした。彼は正直に事実を伝え、アメリカが中立を続ける事を望むと述べましたが、この演説は完全に裏目に出てしまいました。電報が本物だと知ったアメリカ国民は激怒し、政府はドイツに宣戦布告しました。

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それまで国力の割に小規模な軍備しか持っていなかったアメリカは急ピッチで軍備を整え、200万人以上の兵士をヨーロッパに送り込み、ドイツ軍の攻勢を食い止めました。連合軍による海上封鎖によって疲弊していたドイツはアメリカ軍の参戦によって勝ち目がなくなり、連合国と休戦協定を結びました。戦争は連合国の勝利に終わりました。

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当時のアメリカ大統領ウィルソンは、戦争を終わらせるために14か条の平和原則を発表しました。内容は以下の通りです。

第1条:秘密外交の廃止
第2条:海洋の自由
第3条:経済障壁の撤廃
第4条:軍備の縮小
第5条:植民地問題の公正解決
第6条:ロシアの回復
第7条:ベルギーの主権回復
第8条:フランス領の回復
第9条:イタリア国境の調整
第10条:オーストリア=ハンガリー帝国の自治
第11条:バルカン諸国の回復
第12条:トルコ少数民族の保護
第13条:ポーランドの独立
第14条:国際平和機構の設立

ドイツはこれを受け入れる形で連合国に降伏したため、この原則は戦間期の国際社会のあり方に大きな影響を与えました。
例えばオーストリアやロシア、ドイツの領土だった東ヨーロッパではアメリカの主張に基づいて民族自決が推進され、ポーランドチェコスロヴァキアユーゴスラビアなどが独立しました。
オスマン帝国領だったイラクやシリアなどの地域は英仏の委任統治領になりますが、植民地ではないので独立への布石となり、特にイラクは1932年と早期に独立しました。
それ以外の世界各地でも自治や独立を要求する動きが活発になり、アイルランドなどが独立しました。そして第二次世界大戦後にはアジア、アフリカの植民地のほとんどが独立することになります。

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そして、第14条に基づいて国際連盟が設立されました。ウィルソン大統領はこの国際連盟を通じて各国が協調外交を行う事で大戦の再発を防ごうとしましたが、議会はそれに賛成しませんでした。上院議員の多くはモンロー主義を信じていたからです。つまりヨーロッパの政治に介入するべきではないと考えており、講和条約の批准を否決してしまいました。このためアメリカ合衆国国際連盟に加入しませんでした。

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1920年、ウォレン・ハーディングは、「常態に戻ろう(Return to Normalcy)」「アメリカ第一」というスローガンを掲げて選挙に圧勝し、大統領になりました。彼の事をよく知りたい方はこちらの記事をご覧ください。

彼の言う「常態」というのは大戦に参加する前のアメリカのことであり、アメリカは孤立主義的、モンロー主義的な外交に戻りました。そしてしばらくの間これが続きます。

一方、アメリカと違って大きな被害を受けたヨーロッパの国々は第一次世界大戦の前に戻りたくても戻れませんでした。ロシア革命と内戦を経てソビエト連邦が成立し、イタリアではムッソリーニの率いるファシスト党が、ドイツではヒトラーの率いるナチスが政権を握ります。

大規模な植民地を持たない日本、ドイツ、イタリアといった列強国は、対外侵略を始めます。1935年にはイタリアがエチオピアを侵略しました。そして軍部が影響力を強めた日本は、満州事変を経て日中戦争に突入します。

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アメリカは戦争に直接介入はしませんでしたが、日本と交戦していた中華民国に軍事物資を援助しました。イギリスやソ連中華民国を支援し、日本軍はこれを阻止するために広州や東南アジア各地などを占領しようとします。

1937年10月、時の大統領フランクリン・ルーズベルトは日本やドイツ、イタリアの行動を批判する「隔離演説」を行いました。

「世界の九割の人々の平和と自由、そして安全が、すべての国際的な秩序と法を破壊しようとしている残り一割の人々によって脅かされようとしている。(…)不幸にも世界に無秩序という疫病が広がっているようである。身体を蝕む疫病が広がりだした場合、共同体は、疫病の流行から共同体の健康を守るために病人を隔離することを認めている」(wikipediaより引用)

日本やイタリアへの経済封鎖などの制裁を求めるこの演説に対してアメリカの世論は激しく反発しました。平和主義団体などが、ルーズベルトはアメリカを世界大戦に巻き込もうとしている、と主張しました。

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1937年12月には、日本軍の攻撃に晒される南京から脱出する外国人を乗せたアメリカ軍の軍艦パナイ号誤爆され、3名の死者が発生しましたが、世論は大きくは変わりませんでした。

ヨーロッパでドイツがオーストリアやチェコスロバキアを併合した時も、ヒトラーとの交渉の場に立ち会ったのはイギリス、フランス、イタリアの首相であってアメリカではありませんでした。

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1939年、ドイツがポーランドに侵攻し、ついに第二次世界大戦が始まります。1940年にはフランスがドイツに占領され、ドイツと戦っているイギリスが窮地に立たされる中、1941年3月にアメリカはレンドリース法を可決し、ドイツや日本と交戦しているイギリスやソ連などに軍需物資を援助し始めました。しかし、アメリカの世論はこの段階ではまだ戦争に直接介入することは拒んでいました。

結局ルーズベルトが戦争に対する国民の支持を得られたのは、12月に日本軍が真珠湾を奇襲攻撃してからでした。12月8日に日本、12月11日にドイツ、イタリアの宣戦布告を受け、アメリカは第二次世界大戦に参戦します。

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これ以降のアメリカは急速に軍備を整えて戦争を遂行し、1945年に連合国第二次世界大戦に勝利しました。戦争中、アメリカは国際連合の設立を構想していました。1945年10月にアメリカの主導で正式に設立された国際連合は、強制力の不足していた国際連盟の反省を踏まえ、国連の設立や平和維持活動などを行うようになりました。

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こうなると、国際連合設立を主導したアメリカは、第一次世界大戦後のようにアメリカ大陸にひきこもっているわけにはいかなくなりました。ソ連の勢力拡大および冷戦を背景に、アメリカは朝鮮戦争ソ連によるベルリン封鎖などの問題に積極的に介入し続け、世界の警察官と呼ばれるようになりました。

 

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この状況はソ連が崩壊した1991年以降も、今日まで続いています。

ここまでを振り返ると、アメリカには外交に関して、大きく二つの方針があることがわかります。

一つは、理想主義国際協調主義に基づいて積極的に国際問題に介入し、世界に平和をもたらそうとする方針です。第一次世界大戦に介入して国際連盟を提唱したウィルソンや、国際連合の設立を主導したフランクリン・ルーズベルトなどがこれに当たります。彼らのおかげで第一次世界大戦が収束し、また民族自決国際連合などの現代の国際社会の基本となる原則が形成されました。しかしそれらの理想ためにアメリカ人の血が流され、戦費を負担させられました。ウィルソンもルーズベルト民主党員であり、民主党ではこの方針が主流の時期が長いと考えられます。

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もう一つは、南北アメリカ大陸の問題以外に干渉しない孤立主義的、モンロー主義な方針です。19世紀のほとんどの政治家やウォレン・ハーディングなどはこの考え方を選び、結果としてアメリカはヨーロッパなどでの戦争に巻き込まれずに国力を高めることができました。しかしナチスドイツの台頭などを傍観し、結局はより大きな戦争に巻き込まれてしまったケースもあります。ウォレン・ハーディングは共和党で、また19世紀後半には共和党が比較的優勢でした。第二次世界大戦までの共和党ではこちらの方針が主流だったといえます。

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共和党の候補として出馬したドナルド・トランプは、第二次世界大戦以降主流だった前者の方針をやめ、後者の方針に近付こうとしている、と考える事ができます。