ピピパポピのポパピ はてな地方編

イラストを用いて楽しく歴史を紹介するブログです

【小山田圭吾】雑誌クイック・ジャパンといじめ告白記事を読んできた【太田出版】

7/26追記:

・一部記述を追加、修正、削除しました。北尾修一氏の指摘する通り、『村上清のいじめ紀行 第3回』および『村上清のいじめ紀行 第4回』の内容について知ることは「いじめ紀行」に関して正確な評価をくだす上で意義があると考えるので、これに関する記述を強化しました。

・読者様から「いじめ紀行」が全5回だったのではないかとの指摘があり、指摘が正しいと判断したので訂正しました。ありがとうございます。(指摘前は全4回だと誤認していました)

 

こんにちは。今回は東京オリンピック開会式の作曲担当者を辞任した小山田圭吾氏が行ったいじめを告白した記事『村上清のいじめ紀行 第1回』が掲載された雑誌『クイック・ジャパン 3号』などを図書館で読んできたので、その内容を記事にしました。連載記事『村上清のいじめ紀行』の第2回以降の内容や、雑誌内の他の記事の様子などにも目を通し、紹介していきます。当記事は小山田圭吾氏本人よりもむしろ、当時の『クイック・ジャパン』誌について精度の高い評価を下すことを主な目的としています。
普段の当ブログの記事とは傾向が違いますが、社会的意義や時事性、読者の関心の高さなどを鑑みて記事にしました。この記事を通じて読者の皆様と知識を共有できれば幸いです。

 

クイック・ジャパン 3号と例の記事について

小山田圭吾氏は2つの雑誌の記事でいじめについて告白しています。一つは『ロッキング・オン・ジャパン94年1月号』に掲載されたインタビュー記事で、もう一つは1995年8月に発行された『クイック・ジャパン 3号』の『村上清のいじめ紀行 第1回』という記事です。後者を執筆した村上清は当該記事内で、いじめに関する記事を書くにあたって、「昔読んだ『ロッキング・オン・ジャパン』の小山田圭吾インタビューを思い出した」ので彼を取材することにしたと書いています。つまり二匹目のドジョウを狙った格好なわけですが、それにしても村上清や『クイック・ジャパン』誌編集担当者の露悪性が際立った記事でした。記事というか雑誌でした。なぜなら表紙をめくると

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目次と小山田氏の顔。

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『いじめ紀行』は「強力企画」としてプッシュされている

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そして、その次のページはというと……

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障害児をロボコンのキャラに喩えている差別意識丸出しの小山田圭吾の写真が! 編集部は『いじめ紀行』を猛プッシュしています。当時のクイック・ジャパンの編集部はこの記事を雑誌の顔として扱っていますし、その結果起こった事に対しても責任があるはずです。

 

村上清氏は

僕自身は学生時代は傍観者で、人がいじめられるのを笑って見ていた。短期間だがいじめられたことはあるから、いじめられっ子に感情移入する事は出来る。でも、いじめスプラッターには、イージーヒューマニズムをぶっ飛ばすポジティヴさを感じる。小学校の時にコンパスの尖った方で背中を刺されたのも、今となってはいいエンターテイメントだ。「ディティール賞」って感じだ。どうせいじめはなくならないんだし。

(いじめの詳細な)「話を聞くと、”いじめってエンターテイメント!?”とか思ってドキドキする」

などと書き、「エンターテイメント」としてこの連載を行っています。

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各ページに注釈と胸糞悪い挿絵がついていました。

いじめ紀行 第2~5回の内容

『クイック・ジャパン 4号』に掲載された『いじめ紀行』の第2回では、竹熊健太郎氏が「いじめられっ子」としてインタビューに答えています。この人は『クイック・ジャパン 3号』内で別のロングインタビュー記事に出るなど当時は誌内で活動しており、今は無料Web漫画雑誌「電脳マヴォ」の編集長をしています。
いじめられていた竹熊氏が、加害者が怪談を苦手としている事に目をつけて、呪いの手紙のようなものを用いて加害者に反撃しようとして失敗したエピソードや、共産主義者のオタクの友達を作って自分の居場所ができて「いじめを克服」していく様子などが語られています。

第3回では、「テクノDJはヒップホップDJにいじめられてるんじゃないか?」という仮説をもとに、ジェフ・ミルズというデトロイト・テクノの黒人DJが来日すると聞いた村上清氏が

黒人がテクノやるって凄くないですか。だって黒人ってたとえドラムマシン使ったとしても、肉体的なヒップホップ/ラップ方向に行くもんでしょ、普通。先輩にリスペクトとかして、コミュニティって感じで。テクノやる黒人ってそういうのに背を向けた奴じゃないかな。黒人ってアメリカのマイノリティなんだろうけど、その中の更にマイノリティっていうか。絶望してあんな音楽(テクノ)やってるとしたら似合い過ぎですよ

という人種的ステレオタイプに基づいた誤った(少なくとも記事内でのジェフ・ミルズの言動から判断する限り誤っていた)持論を編集長に披露したことから、「ジェフ・ミルズなんだけどさ、あれ次のいじめ紀行でやんない?」と言われ、ジェフ・ミルズ氏を取材することにしたそうです。

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写真下部に「間近で見たジェフ・ミルズの目は、宇宙人のようだった」

とのキャプションがある

村上清氏がいじめについて質問してもミルズ氏は「僕自身は、(中略)いじめられたことはなかったよ」と言い、一般論的な回答に終始します。

--今日は音楽についてではなく、いじめについて話を聞きたいんですけど。日本ではいじめっていうのが今凄く問題になってるんです。

「いじめ? ああ、いじめね。いじめのような単なるプレッシャーに屈するべきではないと思う。もちろん人それぞれ性格があって当然いじめっ子もいるだろうけど。僕自身は、子供の頃は体が大きい方でケンカする方でもなかったけど、いじめられたことはなかったよ」

(中略)

--日本では”葬式ごっこ”とか、陰湿なんです。で、例えばレコード屋のテクノコーナーでいじめられっ子っぽい人をよく見かけるんです。

「テクノでもいろんなタイプがある。ハードコア、メタルといった暴力的なタイプのテクノもあれば、トランスなど受動的なタイプもある。僕自身は音楽を社会問題と結び付けて考えたことはない」

--社会問題っていうか、テクノは凄いマイノリティの音楽じゃないかと思って。それでいじめと繋がってくるんです。黒人のDJっていうとヒップホップ/ラップがメジャーだという印象があるんですけど、あなたはそうじゃないDJだと思うんです。

「実際のところ、テクノミュージックは、主に黒人によって作り出され形式化された音楽なんだ。(中略)肌の色が白だろうが黒だろうが関係ない。単に好みの問題だ」

どうやら、何がテクノかって時点でもう取材者と被取材者の間にズレが生じているようだ。別に何がテクノでもいいんだけど、ただ、脳にクる音と足の裏にクる音とは明らかに違う。

 こんな風に取材対象やテクノミュージックに対する敬意を欠いたやり取りの後、デトロイトの劣悪な治安事情や自身が学校外で暴行された話なども少しだけするのですが、「いじめってエンターテイメント」だと思っている村上清氏や読者にとっては「エンターテイメント」として満足できるような質や量の発言ではなかったでしょう。
もしジェフ・ミルズ氏が本人の主張する通りいじめられた経験がほとんどなかったのだとしたら経験していないことは語りようがないし、逆に凄惨ないじめを経験していたのだとしたらその経験をこんな失礼な記者に対して語りたいとは思わないはずなので、どちらにしてもこの企画が成功する余地は極めて小さかったはずです。

 

第4回は中国の専門学校で学生の一人が旧友のいじめに報復するために教室内で爆弾を抱えて自爆し、本人を含めて3人が死亡した事件をテーマにしているのですが、前3回と比べて本当にしょぼい記事でした。なにしろ3ページしかなく、しかも紙面の半分以上が事件を報じるニュース記事の引用で占められているのです。一応中国に留学経験のある人」と「もといじめっ子だという女子高生」に簡単に話を聞いたりしているらしいのですが、筆者が中国の学校の事情に詳しいわけではもちろんないので、極めて内容の薄い記事でした。

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その後、第5回が『クイック・ジャパン第8号』に掲載されたそうなのですが、私の利用した東京都立多摩図書館に置いてなかったので内容を確認できませんでした。内容に関する情報を提供してくれる方がいたら助かります。

編集部が倫理的にまずいと思ったのか、それとも「エンターテイメント」として出来が悪いと判断したのか、両方なのかはわかりませんが、「いじめ紀行」は第5回を最後に、尻すぼみな形で終わります。

これは私の推測ですが、「いじめ紀行」を連載するにあたってクイック・ジャパン編集部と村上清氏は邪悪だが大勢の読者が見込める第1回(小山田氏との対談)を掲載した後、中立的な立場を自称するための言い訳として第2回(竹熊健太郎氏との対談)を掲載する予定でした。そしてその後の事は何も考えていませんでした。何も考えていなかったので、ネームバリューがあって日本の国内問題に関心を持っていない適当な有色人種の外国人と適当な対談をした(第3回)後、いよいよ本当に書くものがなくなって3ページのコタツ記事(第4回)と第5回の記事を出した後、本当の本当に書くものがなくなったので連載を終了したのだと思います。

他の記事について

クイック・ジャパン3号~6号の他の記事にも目を通したのでどんな記事があったのか紹介していきます。

サブカル誌だったクイック・ジャパンには過激な内容の記事もいくつかあり、わかりやすく目立ったのは『路上全裸事件顛末記』という記事でした。筆者である芳澤ルミ子という女性が新宿の路上で全裸撮影をした後、住所を警察に特定されて自宅で任意同行を求められ、『フォーカス』なる雑誌の関係者が助け舟を出してくれると思ったものの助けてくれなかった、という話をしています。巻頭の胸糞悪い「ロボコン」の写真の4ページ後には、新宿のアルタ前や紀伊國屋書店前などを背景にして全裸になっている男女の写真が載っていました。

アングラっぽいものとしては、オウムファンの女性やマジックマッシュルームなどに関する記事もありました。

ただ、全ての記事が露悪的で過激だったわけではなく、例えば永井豪のインタビュー記事で永井は、暴力的な漫画を描いてはいるけれど戦争が起こって欲しくない、暴力やグロシーンにカタルシスを感じているわけではないなどの趣旨の発言を行い、地下鉄サリン事件を批判しています。

小山田圭吾は『いじめ紀行』以外の記事にも出ており、名古屋にある店主が客に説教をするかなり変わったレコード屋を取材したりしていました。

 

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ウマ娘の感想とかを色々書き散らす

こんにちは。今回は巷で話題の『ウマ娘 プリティダービー』をプレイしてみたのでその感想やらウンチクやらを記事にしてみました。なおゲームプレイ体験者が読むことを想定して書いたので基本的にゲーム内容の解説はしません。またネタバレを含みます。以上よろしくお願いします。

 

最初は舐め腐っていた

3/16にウマ娘のアプリをインストールた時は、まさかこんなにハマるとは思っていませんでした。競馬の知識は限りなくゼロに近くて競走馬の名前はオグリキャップディープインパクトハルウララぐらいしか知らなかったし、そこそこ元ネタに詳しいはずのFGOはドレイク船長が出てくる面の途中で飽きて辞めてしまったし、デレマスはプレイしてすらいないし、なにより最低限の予備知識がないのでターフの上を走っているウマ娘達のコンセプトアートを見ても全然ピンとくるものがなかったからです。それでも「これだけ流行っているわけだしせっかくだからプレイしてみよう」という感じでインストールしてみました。

 

深まる知識、ウマ娘達への思い入れ、そして上達

そんなわけで右も左もわからない状態からとりあえずチュートリアルに出てきたダイワスカーレットの育成を始めたのですが、最初は何もわからなかった。ダイワスカーレットが「三冠路線とティアラ路線があるけれど、アタシは可憐なティアラ路線を目指すわ!」とか言っていても、はあそうですかって感じだった。
そして序盤のオークスで五着以内が取れずにゲームオーバーになってしまいました。今考えると最初はサポートカードのレベルを上げていなかったから仕方がない。
それから攻略サイトで簡単だと書いてあったハルウララやガチャで引き当てたトウカイテイオー(ダート、差し、長距離……そういうのもあるのか……)になんとか三年目の正月を迎えさせてあげた後、四周目のサクラバクシンオーでわりとあっさりシナリオをクリアし、初のうまぴょい伝説を眺めることができました。
この時からウマ娘をプレイし、色々なキャラのシナリオを堪能し、攻略サイトwikipediaの競馬関連の記事などを読み漁り、ウマ娘たちをウイニングライブに送り込むべく奮闘する日々が始まりました。

プレイしていくうちに偶然もしくは必然的にいろんな出来事が起こり、それがウマ娘達との思い出に変わっていきます。
五回目の挑戦でやっとナリタブライアンの背中に追いつかせてあげることができたマヤノトップガン、追い込みの強さを教えてくれたゴルシ、二回しかプレイしていないのに初めて一緒に温泉に行けたグラスワンダー、育て方を試行錯誤しまくったトウカイテイオー、一緒に戦績の実績を解除したり色んなトロフィーを回収して回ったりしてくれたタイキシャトル、チーム競技場で大活躍中のスペシャルウィーク、みんなのことは忘れない。因子システムを理解してサポートカードのレベルを上げ、どのキャラでもわりと簡単にうまぴょいできるようになった今でも忘れない。

 

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最近育成が上手く行ったと思われるみなさん

いろいろ新鮮なゲーム体験

当初は競馬についてほとんど何も知らなかっただけでなく、普段ほとんどソシャゲをプレイしていなかったし、ウマ娘に似てると言われているパワプロダビスタなどもやったことがなかったので文脈がわからなくてつまらないんじゃないかと思っていたのですが、そんなことはなく、むしろ色々と楽しくて新鮮なゲーム体験が出来た気がします。
例えばこのゲームでは恐らく意図的にゲーム内の諸々の処理に使われる計算式や数値などがブラックボックス化されています。そのため、「根性」や「賢さ」といった効果のよくわからないステータスの意義などについてみんながネットで色々議論していたり、私も効果を推察するためにダビスタウイニングポスト攻略サイトを見に行ってそれらのゲームのステータスに関する記述を確かめたりしているのですが、これは私が普段プレイしているゲーム、特に「シヴィライゼーション」なんかだと開発者かユーザーのどちらかがよっぽど愚昧だったりしない限り起こりそうもない事態なので面白かったです。皮肉ではなくマジで。もし仮にcivの諸々の数値がブラックボックス化したら俺はキレるし他のユーザーからも不評の嵐になるとは思うけど。
あと流石にキタサンブラックのサポートカードが強すぎる気がするんだけどゲームバランス調整上手く行くんでしょうか?ナーフしたらキタサンブラック重課金した人たちが怒るだろうしそういう場合に運営がどうするものなのかソシャゲ経験が浅すぎてよくわからない。そういう所も新鮮でした。

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キタサンブラックは手に入らなかったけど育成ウマ娘のほうは無償ガチャ20連目でなんかすごいことになった

ウマ娘と少しだけ関係のあるあれこれ

ウマ娘をプレイしながらWikipediaの競馬関係の記事を読み漁ったりしたので、面白かった記事をシェアします。あんまり他のオタクが言及したり読んだりしてなさそうなものを中心にチョイスしました。

ニコニコ大百科の記事のほうが若干わかりやすいですが、宝塚記念に勝ったハマノパレードという馬がその次の高松宮杯のレースで転倒、粉砕骨折して安楽死処分されることになったはずなのに密かに屠殺され、肉が食肉として市場に流通。スポーツニッポンの新聞記事によって真相が暴露されるという事件がありました。
レース中に事故ったススズやライスシャワーがその場で速やかに安楽死処分になったのは、この事件の教訓によるものだと思われます。

ナチスドイツによる占領中の凱旋門賞の様子とか、グダグダ気味の黎明期の話とかが面白いです。ルパシャという馬が馬主を蹴り殺した後で凱旋門賞を取っていたりして笑った。

今後やってみたいこと

東京競馬場と競馬博物館に行ってみたい

なぜ東京競馬場なのかというと家から近いのとウマ娘での登場頻度が高いから。競馬場がどのぐらいの大きさなのか実物を見たい。オークス日本ダービーあたりを見に行こうかな


モンゴルに行ってみたい

参考:速水螺旋人さんのモーメントです

実はウマ娘をプレイする前からモンゴルにちょっと行ってみたいと思っていた。馬に乗りまくってみたいしライフスタイルの大きく違うモンゴルの人達の文化についても気になる。あとアフリカとか南米とかに行くのと比べると明らかにハードルが低い。でもコロナを含め諸々の理由でまず無理。でもいつか行ってみたい。

 

楽しかったけどそろそろ課金しないと戦力頭打ちだし課金するぐらいなら俺はsteamでセール中のcyberpunk2077を買うぞ! というわけで本当にcyberpunk2077を買ってしまったので今のうちに感想を残しておくことにしました。無課金でも競馬の知識がなくても楽しめるのでまだプレイしていない人はプレイしてみてください。以上ありがとうございました。

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サムネ用画像です。クレーンゲームでマヤノちゃんのぬいぐるみを一気に三個ぐらい取ったことがあるんだけどスクショ撮り忘れた。今考えると勿体ない

 

シンエヴァの次は科学映像館の科学映画を観て人々の高速道路と高層ビルへの期待に思いを馳せよう!

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こんにちは。昨日「シン・エヴァンゲリオン庵野秀明宇部興産と科学文明への熱い思いを詰め込んだ映画だったんだ!」というような感じの記事を投稿したアラスカ4世です。今回は、昭和時代の人々が科学文明に対してどのような思いを抱いていたのかに関する記事を書きました。よろしくお願いします。

 

前回の記事はこちら

昨日は気の迷いでnoteに投稿してしまったものの、やっぱりはてなブログのほうが使いやすいですね。当面の間noteではなくこちらで更新していこうと思います。

 

今回は、「科学映像館」というNPO法人が所蔵している科学映画を紹介していきます。
科学映像館はYoutubeのチャンネル公式サイトを持っているので、所蔵作品はネット上で鑑賞することができます。まずは下の動画を観てください。途中まででもいいので。

日本の合成ゴム

強そうなBGMと共に壮大なコンビナートの様子が映し出され、なぜ合成ゴムが必要なのかやどうやって合成ゴムが作られるのかが紹介されていきます。

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車!車!車! ゴム!ゴム!ゴム!スピードが、ショックが、ゴムを必要とする。 ゴムの轍に乗って若さが走る! 色とりどりのゴムが海に散っている。陸と海を柔らかく隔てるゴム。生活文化の向上とともにゴムの需要はいよいよ増えていく。

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この時代ならではの演出や言い回しがたくさん出てきて面白いし、迫力のあるかっこいい工場が映るし、眺めていて楽しいですね。こうやって四日市に建てられた石油化学コンビナートが大気を汚染させた結果四日市ぜんそくなどの公害問題が発生させるわけですが、それはまた別の話。というわけで科学映画とはこんな感じの映画です。科学映像館はつよい映像の宝庫です。

 

科学映画とは何か?

科学知識の普及のために制作された映画のジャンルで、1950年代から1970年代にかけて多く制作されたようです。さっきの『日本の合成ゴム』のように企業や地方自治体が企画し、映画会社が製作するケースが多いです。
もっと詳しく知りたい人は、科学映像館の公式サイトを見てください。

こうした映画を通じて、企業や自治体は自らのイメージアップを図ったのでしょう。

次は、しばらく前にツイッターでバズっていた作品です。私はこれがきっかけで科学映像館の存在を知りました。

 

スラム

1961年の生のスラムの様子がフィルムに収められています。住人がウンコしてる様子とかも普通に映っていたりする。すごい……

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ストーリーを雑に要約すると、色々な考えを持った住民が行政と話し合った上でスラムを取り壊し、改良住宅と呼ばれる近代的な集合住宅に移り住み、衛生的で近代的な生活を手に入れるわけです。よかったですね。

 

新しい街 コープブロードウェイセンター

近代化の恩恵から取り残されていたスラムとは逆に近代化の最先端を行っていた住居がこのコープブロードウェイセンター-後のオタクとサブカルの聖地中野ブロードウェイ-でした。この映画も『スラム』と同じ英映画社が作っているのでなんとなく似ていますね。
この映画の企画者は東京コープ社長の宮田慶三郎なので、ミもフタもない事を言ってしまえばこの映画は「俺達はこんなにすごい住居をつくったんだぞ!すごいだろ?」というだけの内容なのですが、なぜそのすごい住居が必要なのか説明するために

現在は進歩する科学が未知の世界から次々と生み出してくる全く新しい素材を再構成して日常に取り入れ古い都市生活を大きく転換させる時代を迎えています。次元を開拓しきって伸びる道路。人間の尊さを誇示して並ぶビルの壁。原料革命、技術革新がやがて招来する輝かしい生活の未来像がここに象徴されています。

みたいな話から始まっているのが良いですね。ビルの壁は人間の尊さの象徴だったのか……。あと、文明=高速道路と高層ビルみたいな感覚が宇部に住む特撮オタクの変人だけではなく日本全国である程度共有されていたのも感じられると思います。

 

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結局このコープブロードウェイセンターは宮田慶三郎氏が構想していたような形では集客力を維持できず、シャッター街と化してしまっていたところにまんだらけ等が進出し、現在のオタクとサブカルの聖地が形成されていくのですが、それはまた別の話。ピッカピカだった頃の中野ブロードウェイは見る価値があります。

 

豊かな社会をめざして

筆者のお気に入りです。ものすごく粒度の粗いタイトルですが製鉄所の映画です。いきなり希望にあふれる強い主題歌が流れるところから始まります。1968年当時から人々は素晴らしい21世紀を夢見ていたんですね。

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鉄は、鉄は、鉄は、鉄は……(エコーするナレーション)

何の映画なのかわかりにくいタイトルなども含めて、映画のあらゆる部分に「鉄こそが文明社会の主役なのだ」という強い自負が見て取れます。この時代のシンジくん達は自信に満ち溢れていて羨ましい。マジで羨ましい。

 

まとめ

この時代には科学文明の進歩と豊かな未来を真剣に夢見ていた人々がいたわけなのですが、現代に生きる我々は宇部興産大喜利をすることしかできない。寂しいですね。

それでも、こういう時代があったんだという事が記憶され続けたほうが良いんじゃないかと思い、記事を書きました。

 

これ以外にも良作がたくさんあるはず

というわけで科学映像館のおすすめの科学映画を紹介してきましたが、他の所蔵作品が面白くないと言いたいわけではないです。
2000年代に入ってから制作されたものもあるし、戦前や戦中の作品もあります。公害や自然環境、医学、伝統文化などを題材にした映画や観光協会が企画した映画など、今まで紹介した映画とは大きく傾向の違う映画もあります。
その中で筆者はまだごく一部の映画しか見ていないし、この記事では見た映画の中で先日の記事と関係が深そうなものを恣意的にチョイスして紹介ています。
なので他にも面白い科学映画や科学映画の見方は色々あるはずですが、それは読者の皆さんが見つけてください。

というわけで、どうもありがとうございました。

近代フランスの歴史(2)三部会とバスティーユ襲撃

こんにちは! アラスカ4世です。前回革命前のフランスの社会について解説したのに続き、今回からフランス革命自体について解説していきます。

前回の記事はこちら

 

前回のおさらい

革命前のフランス王国には特権を持った第一身分(聖職者)、第二身分(貴族)と、それ以外の特権を持たない第三身分(平民)が住んでいました。
財政改革に反対する貴族の要求によって三つの身分の代表者からなる議会である三部会の開催が決まると、政治参加の機会を奪われ不公平な税負担に苦しんでいた平民たちは、政治意識に目覚め政治のあり方を変えなければならないと考えるようになりました。

平民の思惑

それでは現状に不満を抱いていた平民達は、具体的に何を求めていたのでしょうか?三部会開催の準備のために各身分の代表者から陳情書が提出されたのですが、これを読むとそれがわかります。

都市の第三身分(ブルジョワジーと呼ばれる比較的裕福な人々が多い)の主な陳情
・全国三部会の定期的招集と全議員の多数決による採決
・貴族の経済的特権と官職独占の廃止
・国内関税の廃止
・立憲政体
・選挙で選ばれた議会による税の承認
・税負担の公平化

農村の第三身分(富農などが多い)の主な陳情
・領主貢租、十分の一税、その他の重税の軽減
・徴税人、商人、不在地主などへの非難

このように、代議制の導入や税負担の見直し、官職の門戸開放などが望まれていました。その一方で多くの陳情書が学歴のある第三身分の中では裕福な人々によって書かれる傾向が強かったこともあり、官職売買やギルドの廃止、あるいは教会資産の没収や私有財産権の廃止などの抜本的な改革に対しては慎重な姿勢を示していました。

 

貴族の思惑

平民たちが全議員の多数決による採決を望んでいたのに対して、過半数の貴族は投票を身分ごとに行うべきだと主張しました。こうした場合、貴族の過半数と聖職者の過半数が議題に反対した場合に採決が否決されることになります。

この投票方式をどうするのか問題は非常に重要でした。下の図は、「きのこの山の製造を禁止すべきだ」という決議の採決が行われ、平民の主張通りに全議員での多数決が行われた様子です。

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図では大半の聖職者議員が決議に賛成し、貴族の意見が分かれ、大半の平民が決議に反対しています。全議員の半数が第三身分から選出されたため、この決議は主に平民の反対によって否決されることになります。

一方、貴族の主張通り身分ごとに投票が行われた場合は下の図のようになります。

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この場合は聖職者と貴族が決議に賛成し、平民が決議に反対したとみなされるため、2対1で決議は可決されることになります。要するに、投票方式をどうするのかによって平民が三部会の主導権を握るのか、貴族と聖職者が主導権を握るのかが決まることが予想されました。この投票方式をどうするのか問題の議論がこじれた結果、三部会は失敗に終わりました。

半数以上の貴族が身分別投票を主張した一方で、38パーセントの陳情書には、身分別投票ではなく全体の多数決にすることもやむを得ない、と書かれていました。
ただし、都市の第三身分の陳情書の73パーセントが投票において機会均等の原則を採用すべきだと主張していたのに対して、同じような考えの貴族は5パーセントのみで、多くの貴族は自分たちが政府の要職を独占しつづけるべきだと考えていました。
その一方で貴族の陳情書の89パーセントでは貴族が経済的特権を放棄してもよいと考えており、また多くの貴族は全国三部会の定期的な開催や選挙による議会の創設、個人の自由を保護するための法改正を望んでいました。
自由主義的な立憲政体を望んでいたという点で多くの貴族と平民議員の意見は一致していました。

聖職者の陳情書では、カトリック教会の地位の護持や教育管理の資格の維持などの現状維持を望む内容が多数を占めました。

こうした陳情書の提出が要望された事は農村部を含めたフランス各地での政治討論を加熱させ、諸々の改革が今すぐにでも実現され、領主貢租などの税がすぐに廃止されるのではないかという思い込みが広まり、人々が納税を留保する事態が頻発しました。

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こうして人々が政治意識を高めていき、しかも飢饉による民衆暴動が頻発する中、いよいよ三部会が開催されました。

 

行き詰まる三部会

1789年5月4日の三部会の開会演説で、国王ルイ16世と財務長官ネッケルは何らかの改革の必要性を曖昧な言い回しで認め、性急な行動は慎むべきだと警告したものの、貴族、聖職者と平民の間で意見が分かれていた投票方式をどうするのかという問題について言及しませんでした。

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このため財政改革に関する議事を進めることを望んでいた国王の希望とは裏腹に、投票方式をめぐる対立が激化し、ついに交渉が決裂しました。
貴族代表者たちが、身分別投票と身分別拒否権は最も重要な権利だと議決したのに対抗して、第三身分側は身分間の合意が得られない場合には第三身分の会議が単独で全代表者資格を認定すること、この会議を「国民議会」と呼ぶ事を議決しました。こうした過程で、それまで穏健だった第三身分の議員達は絶対的な王権や貴族の特権を問題視するようになっていきました。

こうした激しい対立によって権威を脅かされた国王ルイ16世は、王妃マリー・アントワネットらの圧力に屈して改革に反対するようになってしまいました。そして身分別に投票を行わなければならないとする演説を行い、議会に欠席した財務長官ネッケルを罷免しました。
大部分の聖職者の議員と一部の貴族の議員が国民議会に合流するに至り、ルイ16世は武力による事態の打開を決意します。そして軍隊をパリ周辺に集結させるよう命じました。

バスティーユ襲撃

この頃国内では、政府への信頼が失墜していました。飢饉によって飢えた貧民は暴動を起こし、食料の買い占めを行っているように見えた商人や投機家、それを保護しているとされる政府を非難するようになりました。さらには食料の値上がりは三部会の活動を阻止しようとする貴族の陰謀のせいだという考えも広まりました。都市の中産階級もまた、こうした混乱を収拾できない政府を批判するようになりました。

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中産階級の平民たちは、貴族と貧民の両方に対して脅威を感じていました

こうした中、政府が軍をパリに集結させはじめ、民衆やブルジョワジーから人気の高かった財務長官ネッケルが罷免されたのを引き金に、1789年7月12日にパリで暴動が起こりました。
パリのブルジョワジーたちは王国政府からの自衛民衆の暴動をおさえ秩序を維持することを目的に民兵を組織し、武器と弾薬を調達しようとしました。7月14日に弾薬が貯蔵されているバスティーユ監獄に向かった民兵隊や群衆と監獄の守備隊との間での弾薬の引き渡し交渉が難航している間に銃撃戦が始まりました。最初は戦闘に慣れた守備隊が優勢だったものの、国王軍から民兵隊の側に離反する兵士が相次いだことから形勢が逆転し、守備隊が降伏しました。これがフランス史のターニングポイントとして知られるバスティーユ襲撃事件です。
パリ市内の戦いを制した市民達は、常設委員会と市民軍(後の国民衛兵)を創設し、国王による支配が崩壊しました。

 

地方への波及

こうした出来事が地方に伝わると、フランス国内の各地が大混乱に陥りました。飢えに苦しみ、貴族による飢饉の陰謀を恐れていた農民たちは武装し、山賊が暴れているという噂に怯えながら貴族の城を略奪しました。この混乱を「大恐怖」と呼びます。
これに対し地方でもパリと同じような常設委員会と民兵隊が組織され、やがて秩序が回復しました。しかし国王と貴族たちには秩序を維持する能力がないことが明らかになり、国王の権威は完全に失われました。

 

まとめ

今回は三部会による改革が失敗に終わりバスティーユ襲撃が行われ、革命が始まるまでの経緯について解説しました。部分的には見解が一致していたはずの貴族と平民が対立してしまったこと、情報が錯綜する中で飢えや政府軍や暴動などから身を守るために人々が武器を手に取ったことなどが今回の要点です。
次回は、実際に革命がどのように進展していったのかを解説します。近日中に公開予定です。お楽しみに。

近代フランスの歴史 1、革命前のフランス社会

こんにちは! アラスカ4世です。

このブログをずっと放置してしまっていましたが、Twitterなどでフランス革命について言及している人々が増えており、フランス史について簡潔に解説した読み物が求められているのではないかと思い、これを書く事にしました。

 

このシリーズの趣旨

このブログでは、1789年に起こったフランス革命の前夜から第三共和制の政局が一応安定した1900年ぐらいまでのフランスの主に政治史を広く解説していこうと思います。ただし筆者はフランス革命にものすごく詳しいというわけではないし、フランス革命について解説した読み物は他にもたくさんあると思われるので、フランス革命についてだけもっと細かく知りたい人は他の何かを読む事をおすすめします。

 

少し古いですが、楽しく読めると思います。

 

このブログではもっと広い時代を扱い、フランス人が革命の結果を踏まえてそれ以降の政治をどのように行い、現在の共和制国家を作り上げていったのかに重点を置いて解説していくつもりです。なので、フランス革命自体についてはなるべくあっさり解説していきます。今回は、フランス革命前のフランス社会がどのような人々によって構成されていたのかをみていきます。

 

フランス王国の成り立ち

5世紀に西ローマ帝国が滅亡し、西ヨーロッパではそれまでの社会の仕組みの多くが崩壊し、大混乱に陥りました。この混乱をなんとか収拾し、西ヨーロッパの多くの地域を支配したのがフランク王国という国でした。
フランク王国は戦いに長けた貴族を活用することで戦争に勝ち、キリスト教会とその聖職者を庇護することで多くの人々に支配を納得させました。

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それまでの部族とフランク族のイメージ



こうしてカール1世(シャルルマーニュ)は西ヨーロッパの大半を支配することに成功しました。

それから約1000年が経ちました。

フランク王国は東西に分裂し、東側のほうの国は神聖ローマ帝国と名乗り、一時は強大な国になりましたがその後は権力が形骸化してドイツのあたりの国々の曖昧な連合体に成り下がってしまいました。
一方西側のほうのフランク王国はいつのまにか訛ってフランス王国と呼ばれるようになりましたが、百年戦争ユグノー戦争などの危機を乗り越え、ヨーロッパ最大級の国として存続していました。これが皆さんのよく知っているであろうフランス王国です。

 

三部会とフランス王国の身分と階級

当時のフランス王国には、3つの身分がありました。第一身分の聖職者と第二身分の貴族、そして三身平民でした。このうち第一身分と第二身分は免税特権を持っていました。これまでずっとそうだったのだから当然ですね。しかしフランス王国の財政は悪化していたので、時の国王ルイ16世らはこの免税特権を廃止し、貴族らに課税することで財政を再建しようとしました。そしてこれに反対する貴族の要求に応じる形で、3つの身分の代表者による議会である三部会が開催されます。この三部会での議決方法をめぐる議論がこじれた結果議場が閉鎖され、ルイ16世は議会を鎮圧するために軍をパリとヴェルサイユ周辺に集結させるよう命じました。そして色々な噂が流れた末に蜂起したパリ市民がバスティーユ監獄を襲撃し、争乱が地方にも飛び火し、フランス革命が始まりました。

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要するに身分間の利害対立が革命の引き金になったわけですが、どの身分も一枚岩だったわけではないし、全ての貴族が改革に反対していたというわけでもないです。それぞれの身分の置かれていた状況についてもう少し詳しく解説していきます。

 

第一身分:聖職者

そもそも三部会は、1302年に時のフランス王フィリップ4世ローマ教皇ボニファティウス8世と対立した際に国内の支持を得るために開催されたことがきっかけで始まりました。教皇と対決する以上、国内のカトリックの聖職者の支持を集め、自らが宗教的に正しいということを証明する必要がありました。三部会によって聖職者を含む国内の支持を固めたフィリップ4世は教皇ボニファティウス8世を捕らえ、ボニファティウス8世は三週間後に憤死しました(アナーニ事件)。  

 

この経緯について詳しく知りたい人はこちらの記事も読んでみてください

 

こうしてフィリップ4世が教皇権に対する王権の優位を確立した後も聖職者たちは大きな影響力を持ち続けていました。フランスの強国化に努めた1624年から1642年にかけての宰相、リシュリュー枢機卿は、その中でも最も有名な聖職者です。
ただし、フランス革命までの政治の主役は貴族で、革命以降の政治の主役も平民でした。  

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聖職者たちはノートルダム大聖堂のような複雑な建物を建てるだけの力を持っていました

第二身分:貴族

貴族は元々は特権と引き替えに主君のために戦う、日本の鎌倉時代の武士と似た身分でした。フィリップ4世時代のフランス王国では特に諸侯と呼ばれる大貴族の力が強く、フランス王国の半分以上の土地は自治権を持った諸侯によって間接統治されていました。隣の神聖ローマ帝国では諸侯の力があまりにも強くなったため、結局は諸侯に国としての主権を認めざるを得なくなった結果帝国が形骸化してしまいました。

この記事を読むとより詳しい経緯がわかります。

 

一方フランスでは中央集権化を目指す王たちの試みや百年戦争などのゴタゴタの結果、貴族の影響力をある程度削る事ができました。弓や騎馬などと違って簡単な訓練だけで扱えるようになる銃が普及したことも貴族の軍事的な重要性を下げました。それでも貴族が依然として大きな影響力を持ち続けた理由の一つは、平民から貴族になる方法があることでした。

 

きみも貴族になれる!

貴族の地位は世襲されるので、貴族になる一番簡単な方法は貴族の子として生まれることでした。しかしたとえ平民に生まれたとしても、1604年に制定されたポーレット法に基づいて政府や貴族などが販売する官職を購入する事で貴族になることができました。正確に書くと貴族の地位は一部の官職にしか付属してきませんでしたが、官職を買う事で免税特権や社会的地位が得られるため、成功した平民は官職を買ってエリートになり、できれば貴族に成り上がることを目指すようになりました。こうして1789年までに7万もの官職が売却され、国王は売却による収入を手に入れ、しかも優秀な平民を官僚として登用する事ができました。

こうして成功し、貴族として官僚、特に司法に携わるようになった貴族たちは法服貴族と呼ばれ、王国の最高司法機関である高等法院の要職を占めることで大きな影響力を持ちました。
一方昔ながらの軍務に従事していた貴族たちは帯剣貴族と呼ばれ、こちらも軍の指揮官などの要職を独占していました。
こうした貴族たちは、貴族になろうとしている平民の上層の人々とある程度利害を共有しており、名士層と呼ばれるエリートの集団を形成していました。
そして免税特権を手に入れ、官職と同じように投資商品として売られていた領地からの収入で安楽に暮らし、息子に貴族の地位を継がせ、貧困に苦しむ農民たちから憎まれ続けていました。めでたしめでたし。

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しかし18世紀になると貴族が増えすぎたため、法服貴族たちは新たに官職を売りに出す事に反対するようになります。政府が販売する官職の数を減らした結果、富裕層の平民たちが貴族になるチャンスが少なくなり、彼らが貴族を敵視する傾向が強くなっていきました。

 

ちなみに現代では5000円弱で爵位を購入し、シーランド公国という国の貴族になることができるようです。

 

当時は官職に就けるだけの能力と貴族からの信用を得て、もっとずっとたくさんの金を払って官職と領地を買う必要がありました。

 

三身分:平民

貴族や聖職者のような特権を持たない人々は全て平民と呼ばれていました。平民の中には裕福な商人や専門職に就く人、年金生活者や地主なども、人口の大多数を占める貧しい農民なども含まれていました。フランス革命以後の社会で大きな力を持ち、共産主義者から敵視されている資本家も、この時点では第三身分にカテゴライズされています。フランス革命の指導者アベ・シエイエスは三部会開催に際して『第三身分とはなにか』というパンフレットで、こう書いています。「第三身分とはなにか? すべてである。第三身分はこれまでいかなる政治的地位を占めてきたか?無である。それではなにを要求するのか?なにものかになることを」

それにもかかわらず政府の要職を貴族に独占され、不公平な税の負担に苦しんでいた彼らは、三部会の開催によって政治参加の機会を得て、国を変革する決意と期待感を胸に、三部会の議場に向かいました。

 

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貴族と聖職者に虐げられる平民の風刺画



農民

商人、職人、非熟練労働者などを含む第三身分の中でも特に数が多く、フランス革命において独特の役割を果たしたのが農民でした。人口の四分の三を占めていた農民たちの多くは、職業選択の自由がない東ヨーロッパ諸国の農奴と比べれば恵まれていたかもしれませんが、借地代を地主に納め、税を領主と国の両方に納め、領主裁判権とその他諸々の特権を持った領主によって搾取され続けていました。16世紀のユグノー戦争が終結して以来人口が増え続けていたフランスでは、一人一人の農民が利用できる土地が少しずつ減ってきており、そのうちの一部は勃興しつつあった工場制手工業(マニュファクチュア)での労働で生計を立てようとしましたが、いずれにせよ困窮していました。

 

まとめ

今回は革命前のフランス社会について解説していきました。革命前のフランスの諸々の制度が長い歴史の中で形成されていったこと、そしてそれ故に時が経つにつれ社会の歪みや閉塞感が顕在化していったこと、そして身分によって法的な待遇が大きく異なっていたことを理解してもらえると幸いです。個人的には、こうした状況から唐や明などの中国の歴代王朝の末期を連想してしまいます。戦後75年しか経っていない日本社会ですらかなりの閉塞感に満ちているのですから、1000年も続いたフランス王国の閉塞感はその比ではなかったのでしょう。もし仮にフランス革命を起こさずにフランス王国を近代化する余地があったとしても、かなり思い切った改革が必要になったと思われます。

次はフランス革命それ自体を解説する記事を近日中に公開する予定です。なるべく早く公開したほうが多くの人に読んでもらえると推測しているので、可能なら2~3日中に公開します。お楽しみに。それと、ご意見、感想、間違いの指摘、その他諸々お待ちしております。

わかる!三十年戦争 1、オーストリア/ハプスブルク家編

大変久しぶりの更新になってしまい申し訳ありません。アラスカ4世です。

これから数記事に分けて、三十年戦争という17世紀のヨーロッパで起きた戦争について解説していきます。今回は、参戦国の一つであるオーストリアの視点からこの戦争について解説していきます。

三十年戦争とは?

1618年から1648年までのヨーロッパで行われていた戦争です。宗教問題をきっかけに、主に現在のドイツにあたる地域で戦争が続き、オーストリアスウェーデンデンマーク、フランス、スペイン、イングランドなどの多くの国が戦いました。主権国家体制と呼ばれている現代の国際関係が確立するきっかけになった歴史上重要な戦争ではあるのですが、関わった国々の利害関係が複雑で、わかりにくい戦争です。なので、これから何回かに分けてなるべくわかりやすく解説していきます。今回は、参戦国の一つオーストリアの視点から、三十年戦争について解説していきます。

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オーストリアってどんな国?

オーストリアという国は、現在でも存在しています。東欧にある人口840万人ぐらいの小国で、よくオーストラリアと間違えられたりします。

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しかし三十年戦争のころのオーストリア三十年戦争の主役と呼んでも良いぐらい重要な存在で、スウェーデンやフランスなどの周辺諸国と三十年間も戦い続けられるだけの国力を持っていました。なぜかというと、オーストリア大公国の大公は神聖ローマ帝国という国の皇帝を兼ねていたからです。

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当時のオーストリアの地図です。現在と比べて多くの地域を治めていました

神聖ローマ帝国について

神聖ローマ帝国は、現在のドイツ、オーストリアチェコなどにあたる地域を治めていた国家です。広大な地域を支配しており、オーストリア大公国もその一部でした。しかし広大すぎたため皇帝の権力が全国に行き渡らず、各地の領主や都市などが好き勝手に振舞うようになっていました。領主と皇帝は、とくに宗教の面で対立しがちでした。

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皇帝による統制がゆるかったので、領主どうしの争いなども頻発しました。自由都市の一部は、ハンザ同盟を形成して大きな経済力を持ちました

宗教改革神聖ローマ帝国

神聖ローマ帝国やその周辺の国々では、もともとキリスト教カトリックという宗派が信じられていました。カトリック教会は政治工作のための金を調達するために免罪符という紙を民衆に売りつけるなど、腐敗する傾向がありました。

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マルティン・ルターという神学者がこれを批判したことをきっかけに宗教改革が始まり、ドイツの半分以上の地域ではプロテスタントという宗派が信じられるようになりました。その一方で、オーストリア大公=神聖ローマ帝国皇帝や一部の地域はカトリックを信じ続けました。両者は戦争などを経てアウグスブルクの和議を結び、領主はカトリックルター派プロテスタントの一派)のうち、どちらを信仰するか選べるようになりました。領主に支配される領民は、領主と同じ宗派を信じなければならないことになっていました。

ボヘミアの反乱

カトリックプロテスタントの間で一応の平和が保たれていた神聖ローマ帝国でしたが、ある出来事がきっかけで内戦が始まります。それは、ボヘミアという地域の反乱でした。
ボヘミアは現在のチェコにあたる地域で、神聖ローマ帝国の一部でした。1526年にオーストリアのハプスブルグ家がこの地域を相続し、直接治めるようになりました。しかし独自の文化を持っており、プロテスタントの信仰が盛んだったボヘミアでは融和政策が行われていました。

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黄色いのがボヘミアです

1617年にハプスブルグ家のフェルディナント2世がボヘミア王に即位すると、状況が変わってしまいます。熱心なカトリックの信者だった彼はボヘミアプロテスタントを弾圧したため、プロテスタントを信じるボヘミアの貴族たちが反乱を起こしました。

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ボヘミア人たちはプラハ城を襲撃し、ボヘミア王の代官と書記を三階の窓から投げ落としました。これを第二次プラハ窓外投擲事件といいます。似たような事件が1419年にも起きています

反乱を起こした貴族たちは神聖ローマ帝国内のプロテスタントの諸侯らとプロテスタント同盟を結成して連携し、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世がその盟主になりました。
これに対してオーストリア側はカトリック諸侯によるカトリック連盟と協力してボヘミアに兵を送り、白山の戦いを経てボヘミアの反乱軍を鎮圧しました。
プファルツも、オーストリアと同じハプスブルク家で同盟関係にあったスペインによって占領され、プロテスタントによる反乱は一旦鎮圧されました。

オーストリアを警戒する周辺諸国

オーストリアボヘミアの諸侯の土地と財産を没収し、プファルツ選帝侯の領地をバイエルン公に与え、神聖ローマ帝国国内での権力基盤を強化しました。
神聖ローマ帝国の周辺の国々は、この動きを警戒しました。もしこのままオーストリアが権力を強化して神聖ローマ帝国を統合してしまうと、強力な隣国が誕生し、自国の存続が危ぶまれるようになるからです。
フランスオランダイングランドスウェーデンデンマークといった国々がハーグ同盟を結び、オーストリアへの対抗を試みました。

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ハーグ同盟構成国のみなさんです。この時オランダはオーストリアの同盟国スペインと戦っており、三十年戦争に直接介入している場合ではありませんでした

デンマークvsオーストリア

これらの国々のうちデンマークが1625年に直接参戦し、フランスやイングランドスウェーデンがこれを支援しました。しかしデンマーク軍は傭兵同士での主導権争いの結果、三つの集団にわかれて別行動をとることにし、その結果各個撃破されてしまいました。

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戦いに負けたデンマークは1629年にリューベックの和約を結び、三十年戦争から手を引きました。

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イングランド

イングランドは最初、プロテスタント陣営に資金を提供したり軍を派遣したりするなど支援を行っていました。しかしフランスと対立したり財政が悪化したりした結果1630年に三十年戦争から手を引きました。イングランド王チャールズ1世は財政を再建しようとしましたが、議会と対立して1642年に清教徒革命が勃発、1649年に処刑されてしまいました。

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スウェーデンvsオーストリア

デンマークを撃退したオーストリアは、神聖ローマ帝国内での権力をさらに強化しようとしましたが、プロテスタントだけでなくカトリックの諸侯の反発まで受けるようになってしまいました。
ここでスウェーデンがプロテスタント側に立って参戦しました。スウェーデン軍は国王グスタフ2世アドルフの下で軍事改革を行っており、新しい装備や戦術、軍制を有する精強な軍隊でした。さらにザクセン選帝侯ブランデンブルク選帝侯スウェーデンと同盟を結んだため、オーストリア側を圧倒しました。

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しかしスウェーデン軍の快進撃は、リュッツェンの戦いの最中に国王グスタフ2世アドルフが戦死してしまったせいで止まりました。後継者の王女クリスティーナにはグスタフ2世のような指導力はありませんでしたが、フランスプロテスタント陣営に引き入れて直接参戦させることができたため、プロテスタント陣営は戦い続けることができました。

フランスとの戦い

強大な国力を持つフランスは直接参戦するとスウェーデンと連携しながらオーストリアに対する反撃を続けました。同盟国バイエルンを占領され、ボヘミアの首都プラハを攻略され、敗勢が明らかになったオーストリアは、講和条約を締結することにしました。
ボヘミアの反乱が始まったのが1618年、デンマークの参戦が1625年、スウェーデンの参戦が1630年、フランスの参戦が1635年、講和条約のウエストファリア条約が結ばれたのが1648年なので、戦争終結までに30年かかりました。

エストファリア条約と、オーストリアが失ったもの

三十年戦争の最中、神聖ローマ皇帝位を持つオーストリアは、神聖ローマ帝国国内での権力強化を試みていました。もしこれが成功すれば、最終的にはオーストリア神聖ローマ帝国はドイツ一帯を領有する大国になっているはずでした。
そんなことになったら神聖ローマ帝国各地の領主たちは権力を失ってしまうし、強大な隣国が誕生したら周辺の国々にとっても危険なので、彼らはオーストリアが権力を強化するのを止めるべく動きました。
そしてウエストファリア条約では神聖ローマ帝国内の領邦の主権と外交権が認められました。それまで少なくとも形の上では神聖ローマ帝国皇帝の家臣だった彼らは独立した主権国家として振る舞うようになり、オーストリアによる神聖ローマ帝国の集権化の試みは頓挫しました。

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オーストリア大公はその後も神聖ローマ皇帝の地位を持ち続け、神聖ローマ帝国も存続したものの、神聖ローマ帝国に関する実権のほとんどを失ってしまいました。フランスの哲学者ヴォルテールはこの状況を、『神聖でなければローマでもなく、帝国ですらない』と評しました。

その後のオーストリア

三十年戦争によって神聖ローマ帝国諸邦に対する影響力を失ったオーストリアは、オーストリアボヘミアハンガリーなどの直轄領の支配を強化し、神聖ローマ帝国の外に領土を拡張するように方針を転換しました。1699年にオスマン帝国からハンガリー南部などを獲得するなど、地域大国としての地位を維持し続けました。
しかし支配層を占めるドイツ人が人口の四分の一に過ぎない多民族国家になってしまったことから、セルビア人やチェコ人などによる民族運動を抑えきれなくなり、第一次世界大戦末期の1918年に崩壊しました。

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皇帝カール1世は退位し、チェコスロバキアハンガリーなどの国々が独立し、残った地域が現在のオーストリア共和国になりました。

まとめ

神聖ローマ皇帝を兼ねていたオーストリア大公は神聖ローマ帝国の集権化を試み、プロテスタントを抑圧し、諸邦の権力を制限しようとしました。しかしこれは諸邦や周辺諸国の警戒と抵抗を招き、スウェーデンやフランスの参戦を引き起こしました。その結果軍事的に劣勢になったオーストリアは集権化をあきらめることを余儀なくされ、三十年戦争が終わりました。
オーストリアと戦ったスウェーデンやフランスなどの国々は、神聖ローマ帝国内の領土が欲しい、プロテスタントの信仰の自由を守りたい、敵国がむかつくなどの国ごとに異なった事情があって参戦したのは事実ですが、オーストリアの脅威を取り除きたいと考えていた点においては利害が一致していました。

以上、長くなってしまいましたがオーストリア編の解説を終わります。読んでくれてありがとうございました。次回はこの三十年戦争を、スウェーデンの立場から解説してみたいと思っているので、引き続き読んでもらえると嬉しいです。次回は、政治よりも軍事に関する話を多くする予定です。よろしくお願いします。

ロビンソン漂流記はこんな話だった 後編

こんにちは、アラスカ4世です。今回は、前回に続いてロビンソン漂流記の解説を書きました。前回の記事を読むとロビンソン漂流記のあらすじ等が、今回の記事を読むと文脈などがわかると思います!

ロビンソン漂流記 (新潮文庫)

ロビンソン漂流記 (新潮文庫)

 

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黎明期の小説

ロビンソン漂流記は、イギリスにおいて小説というものが本格的に書かれ始めた時期の作品でした。それまでもシェイクスピアが書いたような戯曲や、『ベオウルフ』のような叙事詩は盛んに書かれていましたが、小説は主流ではありませんでした。
小説を書くノウハウが確立されておらず、読み手も小説がどんなものなのかよく知らなかったはずなので、前編で触れたように『自分以外の全員が犠牲になった難破で岸辺に投げ出され、アメリカの浜辺、オルーノクという大河の河口近くの無人島で28年もたった一人で暮らし、最後には奇跡的に海賊船に助けられたヨーク出身の船乗りロビンソン・クルーソーの生涯と不思議で驚きに満ちた冒険についての記述』というものすごく長くて説明的なタイトルがつけられたのかもしれません。

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多くの作品に影響を与える――プロテスタンティズムからエロ小説まで

前編で触れましたが、この作品はキリスト教プロテスタンティズムの倫理を伝える作品として読まれました。しかし、この小説の与えた影響はそれだけではありません。もっと直接的に、無人島をテーマにした作品が多く作られました。十五人の少年が協力しながら無人島で生活していく『十五少年漂流記』や、逆に多数の少年たちが対立して殺しあう『蠅の王』などがそうです。
『フライデーあるいは太平洋の冥界』という小説はロビンソンが主人公で途中までの展開はロビンソン漂流記とよく似ているのですが、ロビンソンが野蛮人のフライデーを教育して従僕にする『ロビンソン漂流記』とは正反対に、野蛮人のフライデーが西洋文明を象徴する存在として描かれているロビンソンのあり方を変えてしまう内容になっています。 

十五少年漂流記 (新潮文庫)

十五少年漂流記 (新潮文庫)

 
蠅の王 (新潮文庫)

蠅の王 (新潮文庫)

 

 一人の宇宙飛行士が火星で生き延びようとする映画『オデッセイ』なども、この系譜にあります。無人島での暮らしに思いを馳せるのは楽しいので、ロビンソン漂流記は高い人気を博し、またそういうテーマの作品が多く生まれました。

https://www.amazon.co.jp/女装十五少年漂流記-十五連結トコロテン-トレイン-安芸-育-ebook

……ツイッターをやっていたら、こんなのも見つけました。アダルトなのでリンクをうまく貼れませんでしたが。


作者ダニエル・デフォーの生涯 

『ロビンソン漂流記』の作者ダニエル・デフォーは、黎明期の小説家らしく波乱万丈な生涯を送りました。当初は小説家ではなく政治宣伝のためのパンフレット作者や、ジャーナリストとして知られており、諜報活動にも協力していました。
1688年に即位した国王ウィリアム3世を支持し、ウィリアム3世の死後は後継者の女王アンとトーリー党を風刺したパンフレットを書いたため、逮捕されて晒し台に上げられました。
当時、晒し台に上げられた犯罪者に対して観衆が汚物などを投げるのが普通だったのですが、その代わりにデフォーに対して花と飲み物を与えました。

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その後はアン女王やトーリー党と和解、協力し、イングランドスコットランドの合邦の利を説いて回ったりしました。1707年、スコットランド議会はイングランドとの合邦を決議し、グレートブリテン王国が誕生しました。
彼が『ロビンソン漂流記』を出版したのは1719年のことで、この時すでに59歳でした。これは大成功だったため、続編『ロビンソン・クルーソーのさらなる冒険』、『真面目な省察』が出版されました。デフォーは1731年に亡くなりました。

ロビンソンのモデルになったアレクサンダー・セルカーク

ロビンソン漂流記は、アレクサンダー・セルカークというスコットランド人の体験談を下地にして書かれました。彼は無人島に漂着し、4年間滞在した後私掠船に救助されてイギリスに帰りました。聖書を読んだり、野生化したヤギを捕えたりした点では小説の内容と一致しています。しかし野蛮人とバトルしたり、帰国後に財を成したりすることはありませんでした。セルカークの滞在した島や住居の跡は2005年に発見されており、島はロビンソン・クルーソー島と改名されています。
作者デフォーはロビンソン漂流記が実話であり、ロビンソン本人が小説を書いたという体裁で本を出版しました。

『ロビンソン漂流記』は黎明期に書かれた小説なので、現代の小説ではあり得ないような部分が色々あり、それにもかかわらず無人島でのサバイバル生活というテーマが優れているので現代での鑑賞にも耐える、面白い小説です。この記事や前回の記事で触れていない魅力も色々あるので、気になる方は読んでみてください!

この記事は以上です。読んでくれてありがとうございました。またよろしくお願いします!