ピピパポピのポパピ はてな地方編

イラストを用いて楽しく歴史を紹介するブログです

わかる!三十年戦争 1、オーストリア/ハプスブルク家編

大変久しぶりの更新になってしまい申し訳ありません。アラスカ4世です。

これから数記事に分けて、三十年戦争という17世紀のヨーロッパで起きた戦争について解説していきます。今回は、参戦国の一つであるオーストリアの視点からこの戦争について解説していきます。

三十年戦争とは?

1618年から1648年までのヨーロッパで行われていた戦争です。宗教問題をきっかけに、主に現在のドイツにあたる地域で戦争が続き、オーストリアスウェーデンデンマーク、フランス、スペイン、イングランドなどの多くの国が戦いました。主権国家体制と呼ばれている現代の国際関係が確立するきっかけになった歴史上重要な戦争ではあるのですが、関わった国々の利害関係が複雑で、わかりにくい戦争です。なので、これから何回かに分けてなるべくわかりやすく解説していきます。今回は、参戦国の一つオーストリアの視点から、三十年戦争について解説していきます。

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オーストリアってどんな国?

オーストリアという国は、現在でも存在しています。東欧にある人口840万人ぐらいの小国で、よくオーストラリアと間違えられたりします。

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しかし三十年戦争のころのオーストリア三十年戦争の主役と呼んでも良いぐらい重要な存在で、スウェーデンやフランスなどの周辺諸国と三十年間も戦い続けられるだけの国力を持っていました。なぜかというと、オーストリア大公国の大公は神聖ローマ帝国という国の皇帝を兼ねていたからです。

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当時のオーストリアの地図です。現在と比べて多くの地域を治めていました

神聖ローマ帝国について

神聖ローマ帝国は、現在のドイツ、オーストリアチェコなどにあたる地域を治めていた国家です。広大な地域を支配しており、オーストリア大公国もその一部でした。しかし広大すぎたため皇帝の権力が全国に行き渡らず、各地の領主や都市などが好き勝手に振舞うようになっていました。領主と皇帝は、とくに宗教の面で対立しがちでした。

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皇帝による統制がゆるかったので、領主どうしの争いなども頻発しました。自由都市の一部は、ハンザ同盟を形成して大きな経済力を持ちました

宗教改革神聖ローマ帝国

神聖ローマ帝国やその周辺の国々では、もともとキリスト教カトリックという宗派が信じられていました。カトリック教会は政治工作のための金を調達するために免罪符という紙を民衆に売りつけるなど、腐敗する傾向がありました。

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マルティン・ルターという神学者がこれを批判したことをきっかけに宗教改革が始まり、ドイツの半分以上の地域ではプロテスタントという宗派が信じられるようになりました。その一方で、オーストリア大公=神聖ローマ帝国皇帝や一部の地域はカトリックを信じ続けました。両者は戦争などを経てアウグスブルクの和議を結び、領主はカトリックルター派プロテスタントの一派)のうち、どちらを信仰するか選べるようになりました。領主に支配される領民は、領主と同じ宗派を信じなければならないことになっていました。

ボヘミアの反乱

カトリックプロテスタントの間で一応の平和が保たれていた神聖ローマ帝国でしたが、ある出来事がきっかけで内戦が始まります。それは、ボヘミアという地域の反乱でした。
ボヘミアは現在のチェコにあたる地域で、神聖ローマ帝国の一部でした。1526年にオーストリアのハプスブルグ家がこの地域を相続し、直接治めるようになりました。しかし独自の文化を持っており、プロテスタントの信仰が盛んだったボヘミアでは融和政策が行われていました。

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黄色いのがボヘミアです

1617年にハプスブルグ家のフェルディナント2世がボヘミア王に即位すると、状況が変わってしまいます。熱心なカトリックの信者だった彼はボヘミアプロテスタントを弾圧したため、プロテスタントを信じるボヘミアの貴族たちが反乱を起こしました。

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ボヘミア人たちはプラハ城を襲撃し、ボヘミア王の代官と書記を三階の窓から投げ落としました。これを第二次プラハ窓外投擲事件といいます。似たような事件が1419年にも起きています

反乱を起こした貴族たちは神聖ローマ帝国内のプロテスタントの諸侯らとプロテスタント同盟を結成して連携し、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世がその盟主になりました。
これに対してオーストリア側はカトリック諸侯によるカトリック連盟と協力してボヘミアに兵を送り、白山の戦いを経てボヘミアの反乱軍を鎮圧しました。
プファルツも、オーストリアと同じハプスブルク家で同盟関係にあったスペインによって占領され、プロテスタントによる反乱は一旦鎮圧されました。

オーストリアを警戒する周辺諸国

オーストリアボヘミアの諸侯の土地と財産を没収し、プファルツ選帝侯の領地をバイエルン公に与え、神聖ローマ帝国国内での権力基盤を強化しました。
神聖ローマ帝国の周辺の国々は、この動きを警戒しました。もしこのままオーストリアが権力を強化して神聖ローマ帝国を統合してしまうと、強力な隣国が誕生し、自国の存続が危ぶまれるようになるからです。
フランスオランダイングランドスウェーデンデンマークといった国々がハーグ同盟を結び、オーストリアへの対抗を試みました。

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ハーグ同盟構成国のみなさんです。この時オランダはオーストリアの同盟国スペインと戦っており、三十年戦争に直接介入している場合ではありませんでした

デンマークvsオーストリア

これらの国々のうちデンマークが1625年に直接参戦し、フランスやイングランドスウェーデンがこれを支援しました。しかしデンマーク軍は傭兵同士での主導権争いの結果、三つの集団にわかれて別行動をとることにし、その結果各個撃破されてしまいました。

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戦いに負けたデンマークは1629年にリューベックの和約を結び、三十年戦争から手を引きました。

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イングランド

イングランドは最初、プロテスタント陣営に資金を提供したり軍を派遣したりするなど支援を行っていました。しかしフランスと対立したり財政が悪化したりした結果1630年に三十年戦争から手を引きました。イングランド王チャールズ1世は財政を再建しようとしましたが、議会と対立して1642年に清教徒革命が勃発、1649年に処刑されてしまいました。

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スウェーデンvsオーストリア

デンマークを撃退したオーストリアは、神聖ローマ帝国内での権力をさらに強化しようとしましたが、プロテスタントだけでなくカトリックの諸侯の反発まで受けるようになってしまいました。
ここでスウェーデンがプロテスタント側に立って参戦しました。スウェーデン軍は国王グスタフ2世アドルフの下で軍事改革を行っており、新しい装備や戦術、軍制を有する精強な軍隊でした。さらにザクセン選帝侯ブランデンブルク選帝侯スウェーデンと同盟を結んだため、オーストリア側を圧倒しました。

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しかしスウェーデン軍の快進撃は、リュッツェンの戦いの最中に国王グスタフ2世アドルフが戦死してしまったせいで止まりました。後継者の王女クリスティーナにはグスタフ2世のような指導力はありませんでしたが、フランスプロテスタント陣営に引き入れて直接参戦させることができたため、プロテスタント陣営は戦い続けることができました。

フランスとの戦い

強大な国力を持つフランスは直接参戦するとスウェーデンと連携しながらオーストリアに対する反撃を続けました。同盟国バイエルンを占領され、ボヘミアの首都プラハを攻略され、敗勢が明らかになったオーストリアは、講和条約を締結することにしました。
ボヘミアの反乱が始まったのが1618年、デンマークの参戦が1625年、スウェーデンの参戦が1630年、フランスの参戦が1635年、講和条約のウエストファリア条約が結ばれたのが1648年なので、戦争終結までに30年かかりました。

エストファリア条約と、オーストリアが失ったもの

三十年戦争の最中、神聖ローマ皇帝位を持つオーストリアは、神聖ローマ帝国国内での権力強化を試みていました。もしこれが成功すれば、最終的にはオーストリア神聖ローマ帝国はドイツ一帯を領有する大国になっているはずでした。
そんなことになったら神聖ローマ帝国各地の領主たちは権力を失ってしまうし、強大な隣国が誕生したら周辺の国々にとっても危険なので、彼らはオーストリアが権力を強化するのを止めるべく動きました。
そしてウエストファリア条約では神聖ローマ帝国内の領邦の主権と外交権が認められました。それまで少なくとも形の上では神聖ローマ帝国皇帝の家臣だった彼らは独立した主権国家として振る舞うようになり、オーストリアによる神聖ローマ帝国の集権化の試みは頓挫しました。

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オーストリア大公はその後も神聖ローマ皇帝の地位を持ち続け、神聖ローマ帝国も存続したものの、神聖ローマ帝国に関する実権のほとんどを失ってしまいました。フランスの哲学者ヴォルテールはこの状況を、『神聖でなければローマでもなく、帝国ですらない』と評しました。

その後のオーストリア

三十年戦争によって神聖ローマ帝国諸邦に対する影響力を失ったオーストリアは、オーストリアボヘミアハンガリーなどの直轄領の支配を強化し、神聖ローマ帝国の外に領土を拡張するように方針を転換しました。1699年にオスマン帝国からハンガリー南部などを獲得するなど、地域大国としての地位を維持し続けました。
しかし支配層を占めるドイツ人が人口の四分の一に過ぎない多民族国家になってしまったことから、セルビア人やチェコ人などによる民族運動を抑えきれなくなり、第一次世界大戦末期の1918年に崩壊しました。

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皇帝カール1世は退位し、チェコスロバキアハンガリーなどの国々が独立し、残った地域が現在のオーストリア共和国になりました。

まとめ

神聖ローマ皇帝を兼ねていたオーストリア大公は神聖ローマ帝国の集権化を試み、プロテスタントを抑圧し、諸邦の権力を制限しようとしました。しかしこれは諸邦や周辺諸国の警戒と抵抗を招き、スウェーデンやフランスの参戦を引き起こしました。その結果軍事的に劣勢になったオーストリアは集権化をあきらめることを余儀なくされ、三十年戦争が終わりました。
オーストリアと戦ったスウェーデンやフランスなどの国々は、神聖ローマ帝国内の領土が欲しい、プロテスタントの信仰の自由を守りたい、敵国がむかつくなどの国ごとに異なった事情があって参戦したのは事実ですが、オーストリアの脅威を取り除きたいと考えていた点においては利害が一致していました。

以上、長くなってしまいましたがオーストリア編の解説を終わります。読んでくれてありがとうございました。次回はこの三十年戦争を、スウェーデンの立場から解説してみたいと思っているので、引き続き読んでもらえると嬉しいです。次回は、政治よりも軍事に関する話を多くする予定です。よろしくお願いします。

ロビンソン漂流記はこんな話だった 後編

こんにちは、アラスカ4世です。今回は、前回に続いてロビンソン漂流記の解説を書きました。前回の記事を読むとロビンソン漂流記のあらすじ等が、今回の記事を読むと文脈などがわかると思います!

ロビンソン漂流記 (新潮文庫)

ロビンソン漂流記 (新潮文庫)

 

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黎明期の小説

ロビンソン漂流記は、イギリスにおいて小説というものが本格的に書かれ始めた時期の作品でした。それまでもシェイクスピアが書いたような戯曲や、『ベオウルフ』のような叙事詩は盛んに書かれていましたが、小説は主流ではありませんでした。
小説を書くノウハウが確立されておらず、読み手も小説がどんなものなのかよく知らなかったはずなので、前編で触れたように『自分以外の全員が犠牲になった難破で岸辺に投げ出され、アメリカの浜辺、オルーノクという大河の河口近くの無人島で28年もたった一人で暮らし、最後には奇跡的に海賊船に助けられたヨーク出身の船乗りロビンソン・クルーソーの生涯と不思議で驚きに満ちた冒険についての記述』というものすごく長くて説明的なタイトルがつけられたのかもしれません。

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多くの作品に影響を与える――プロテスタンティズムからエロ小説まで

前編で触れましたが、この作品はキリスト教プロテスタンティズムの倫理を伝える作品として読まれました。しかし、この小説の与えた影響はそれだけではありません。もっと直接的に、無人島をテーマにした作品が多く作られました。十五人の少年が協力しながら無人島で生活していく『十五少年漂流記』や、逆に多数の少年たちが対立して殺しあう『蠅の王』などがそうです。
『フライデーあるいは太平洋の冥界』という小説はロビンソンが主人公で途中までの展開はロビンソン漂流記とよく似ているのですが、ロビンソンが野蛮人のフライデーを教育して従僕にする『ロビンソン漂流記』とは正反対に、野蛮人のフライデーが西洋文明を象徴する存在として描かれているロビンソンのあり方を変えてしまう内容になっています。 

十五少年漂流記 (新潮文庫)

十五少年漂流記 (新潮文庫)

 
蠅の王 (新潮文庫)

蠅の王 (新潮文庫)

 

 一人の宇宙飛行士が火星で生き延びようとする映画『オデッセイ』なども、この系譜にあります。無人島での暮らしに思いを馳せるのは楽しいので、ロビンソン漂流記は高い人気を博し、またそういうテーマの作品が多く生まれました。

https://www.amazon.co.jp/女装十五少年漂流記-十五連結トコロテン-トレイン-安芸-育-ebook

……ツイッターをやっていたら、こんなのも見つけました。アダルトなのでリンクをうまく貼れませんでしたが。


作者ダニエル・デフォーの生涯 

『ロビンソン漂流記』の作者ダニエル・デフォーは、黎明期の小説家らしく波乱万丈な生涯を送りました。当初は小説家ではなく政治宣伝のためのパンフレット作者や、ジャーナリストとして知られており、諜報活動にも協力していました。
1688年に即位した国王ウィリアム3世を支持し、ウィリアム3世の死後は後継者の女王アンとトーリー党を風刺したパンフレットを書いたため、逮捕されて晒し台に上げられました。
当時、晒し台に上げられた犯罪者に対して観衆が汚物などを投げるのが普通だったのですが、その代わりにデフォーに対して花と飲み物を与えました。

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その後はアン女王やトーリー党と和解、協力し、イングランドスコットランドの合邦の利を説いて回ったりしました。1707年、スコットランド議会はイングランドとの合邦を決議し、グレートブリテン王国が誕生しました。
彼が『ロビンソン漂流記』を出版したのは1719年のことで、この時すでに59歳でした。これは大成功だったため、続編『ロビンソン・クルーソーのさらなる冒険』、『真面目な省察』が出版されました。デフォーは1731年に亡くなりました。

ロビンソンのモデルになったアレクサンダー・セルカーク

ロビンソン漂流記は、アレクサンダー・セルカークというスコットランド人の体験談を下地にして書かれました。彼は無人島に漂着し、4年間滞在した後私掠船に救助されてイギリスに帰りました。聖書を読んだり、野生化したヤギを捕えたりした点では小説の内容と一致しています。しかし野蛮人とバトルしたり、帰国後に財を成したりすることはありませんでした。セルカークの滞在した島や住居の跡は2005年に発見されており、島はロビンソン・クルーソー島と改名されています。
作者デフォーはロビンソン漂流記が実話であり、ロビンソン本人が小説を書いたという体裁で本を出版しました。

『ロビンソン漂流記』は黎明期に書かれた小説なので、現代の小説ではあり得ないような部分が色々あり、それにもかかわらず無人島でのサバイバル生活というテーマが優れているので現代での鑑賞にも耐える、面白い小説です。この記事や前回の記事で触れていない魅力も色々あるので、気になる方は読んでみてください!

この記事は以上です。読んでくれてありがとうございました。またよろしくお願いします!

ロビンソン漂流記はこんな話だった! 前編

ご無沙汰してしまいすみません、アラスカ4世です。今回は、ロビンソン漂流記という小説の話を書きました。時事ネタではないですが、突っ込みどころの多い有名な小説について面白おかしく解説したつもりなので読んでください!

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遭難、海賊、奴隷貿易……波瀾万丈なロビンソンの生涯

ご存じの方も多いかもしれませんが、1719年に刊行されたロビンソン漂流記は主人公ロビンソン・クルーソー無人島に一人で漂着して、無人島でサバイバルをし、無人島から脱出する話です。 

ロビンソン漂流記 (新潮文庫)

ロビンソン漂流記 (新潮文庫)

 

 では終始無人島の話をしているのかというと、そうでもないです。新潮文庫の『ロビンソン漂流記』は360ページもあるのですが、53ページめぐらいで無人島に漂着します。それまでのロビンソン・クルーソーは、大西洋を股に掛けていろんな事をやっています。

ロビンソンはイングランドのヨークで中産階級の家に生まれ、なんとなく船に乗って外国に出て行こうとします。船は嵐にあって難破しますが、ロビンソンらは助かり、イングランドに戻ります。
ロビンソンは次に西アフリカのギニアに行く船に乗り、商品を交易することである程度の財を成します。また同じような船に乗ってギニアに向かおうとしますが、イスラム教徒の海賊に捕まって奴隷になってしまいます。
ロビンソンはやがて主の海賊を出し抜いて筏で脱走し、ライオンやヒョウを撃ち殺したりしながら航海をします。そしてポルトガルの船に救助され、その船に乗ってブラジルに向かいます。ブラジルでは土地を買って開墾し、農園を経営します。奴隷を買ったり召使いを雇ったりして規模を拡大していきますが、それには飽き足らず、欲を出して、黒人奴隷を手に入れるために船でアフリカに行く事にしました。しかし途中で船が難破し、ロビンソン以外の船員は死にます。そしてロビンソンは生き残り、無人島に漂着したのでした。

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ここから本編ともいうべき無人島でのサバイバルが始まるわけですが、ここまででわりとお腹いっぱいになりますね。

無人島へ……わりと恵まれた初期条件

無人島に漂着したロビンソンが最初にしたのは、難破した船から物資を島に引き上げる事でした。船には食料の他に、銃と火薬、ラム酒、工具、服などが残っていました。こうした物資に恵まれ、しかも筏で海賊のところから脱走したりした経験を持っていたからこそ無人島で生き延びる事ができた。作者はそう言いたかったのでしょう。素人が着の身着のままで無人島に漂着して生き延びるよりはリアリティーがありますね。
そしてここからサバイバルが始まります。洞穴を住居にしたり、山羊を捕まえたり、日記を付けたり、麦や米を栽培したりします。

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やがて近くの島に住む野蛮人(原文ママ)が現れます。召使いが欲しいと思ったロビンソンは食人の習慣を持つ野蛮人と戦い、彼らに殺されそうになっていた捕虜の野蛮人の一人を救出します。そして彼にフライデーという名前を付けて、従僕にしました。

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ロビンソンはさらにフライデーを教育して一緒に野蛮人と戦い、捕虜になっていたフライデーの父親と、スペイン人を助けます。
4人になったロビンソン一行は、やがて島の沖に泊まったイギリス人の船に乗って、イギリスに帰国します。
その後は、ブラジルで開墾した農園がどうなったのか確認するためにポルトガルに行ったり、そこから陸路でスペインとフランスを通ってイギリスに戻ったり、道中で熊や狼とバトルしたりします。

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農園からの収益で金持ちになったロビンソンはイギリスで平和に暮らしますが、無人島の様子が気になって再び航海に出ます。さらに世界中を旅して、この様子が続編になりました。

この小説には、色々なみどころがあります。

みどころ1:奴隷制

奴隷制度が存在していた時代の話なので、奴隷の概念が平然と登場します。そもそも序盤にはロビンソン自身が奴隷にさせられており、ロビンソンと一緒にそこから脱出した奴隷の少年は、十年後に解放するという条件付きでポルトガル船の船長に奴隷として買い取られてしまいます。
そしてアフリカに奴隷の買い付けに行こうとしたり、野蛮人のフライデーを奴隷にしたりします。
当時の人々は、奴隷制に関して大きな問題意識を持っていなかったので当然ですね。

みどころ2:キリスト教プロテスタンティズム

ロビンソンは当時のほとんどのイギリス人と同じようにキリスト教徒で、島に流れ着いた時も難破船から聖書を持ち出します。そして神に祈りを捧げ、規則正しい生活を行い、日記を付けることで、誰もいない無人島での精神の平静を保ちます。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を著した社会学者のマックス・ウェーバーは、ロビンソンが合理主義的なプロテスタントの倫理観の持ち主だったと評しています。

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みどころ3:やたらと長いタイトル

ここまで小難しい話でしたが、ここではゆるい話をします。文字が詰まってますが中身はゆるいです。
ロビンソン漂流記の正式なタイトルは、『自分以外の全員が犠牲になった難破で岸辺に投げ出され、アメリカの浜辺、オルーノクという大河の河口近くの無人島で28年もたった一人で暮らし、最後には奇跡的に海賊船に助けられたヨーク出身の船乗りロビンソン・クルーソーの生涯と不思議で驚きに満ちた冒険についての記述』(The Life and Strange Surprizing Adventures of Robinson Crusoe, of York, Mariner:Who lived Eight and Twenty Years, all alone in an un‐inhabited Island on the Coast of America, near the Mouth of the Great River of Oroonoque;Having been cast on Shore by Shipwreck, wherein all the Men perished but himself. With An Account how he was at last as strangely deliver'd by Pyrates)といいます。
俺の妹がこんなに可愛いわけがない』や、『名門校の女子生徒会長がアブドゥル=アルハザードネクロノミコンを読んだら』、『リアルでガチな天才が異世界に転生しても天才魔法使いになって元娼婦嫁とイチャイチャする話。』みたいな最近のライトノベルよりもずっと長いですね。

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長くなってきたので、この記事は一旦ここで終わります。後日公開する後編では、時代背景やロビンソンクルーソーの影響を受けた他の作品などの話を書く予定です。公開したら読んでください!

以上、ありがとうございました。

ロビンソン漂流記 (新潮文庫)

ロビンソン漂流記 (新潮文庫)

 

 

 

巷で話題の銃剣の歴史

こんにちは、アラスカ4世です。

書くと言っていたチュートン騎士団の記事ですが、話がとっちらかってしまい進捗していません。かわりに、今流行りの銃剣の歴史に関する記事を書きました。これを読めば、巷や界隈などで話題の銃剣が軍事的にどういう位置付けの武器だったのかわかるようになります!

銃剣に関する時事問題のおさらい

文部科学省は3月31日、小中学校の新学習指導要領で、中学の武道で新たに「銃剣道」が選択できるように改訂することを告示しました。


銃剣道は、銃を模した木銃を使って突き合う競技だそうです。


 

銃剣の発明とそれ以前の銃兵

さて、この銃剣ですが、17世紀のフランスで誕生しました。農民同士がケンカをしている際、銃口にナイフを差し込み、それを武器にして相手を襲った者が現れました。その人が銃剣の発明者です。

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ケンカが発生したのがバイヨンヌという町だったため、銃剣はバヨネット(仏:baionnette 英:bayonet)と呼ばれるようになりました。

銃剣の発明は画期的でした。当時のマスケット銃は射程が短く、一発撃つごとに装填が必要で、装填に時間がかかりました。そのため、銃剣を装備していない銃兵は一度弾を撃ってしまうと、槍や剣などで接近戦を試みてくる敵に対して無防備になってしまいました。

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無防備になってしまったマスケット銃兵の例 アニメ『魔法少女まどか☆マギカ』からの引用

 

少し真面目に細かく書くと、マスケット銃の射程は長くて100メートルぐらいで、現代の銃のように弾が正確には飛びませんでした。そのため大勢の銃兵で横列を作り、一斉に発射する事で弾幕を張り、低い命中精度を補う運用方法が主流でした。そして撃つためには、銃口から銃弾と火薬を装填し、銃を構えて敵を狙って撃つという動作が必要なため時間がかかりました。

これは人がマスケット銃に弾を込めて撃っている様子の動画です。この人は最速記録に挑戦しているらしいので早く弾を込めることが得意な人のようですが、普通の兵士は装填にもう少し時間がかかったと思われます。しかもこれは18世紀の比較的洗練されたマスケット銃なのですが、これよりも旧式の銃(火縄銃など)であれば、装填にさらに多くの手間が必要でした。

それでも銃を撃てば、銃が登場するまで戦場の主役だった騎士が身に纏っている金属の鎧を貫くことができるので、銃は広く使われるようになりましたが、銃兵を護衛するために近くに槍を装備した兵士が置かれる事が普通でした。

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このgifアニメは16~17世紀のスペイン軍(右側)が左側の敵と戦っている様子です。彼らは槍兵の部隊の周りに銃兵を配置して陣を組みました。そしてこの陣に敵が近付いてきた時、銃兵は弾を撃って敵に打撃を与えた後、槍兵の後ろに退避し、後は槍兵による白兵戦に任せることになっていました。この陣形は「ルシオ」と呼ばれていました。

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wikipediaから引用したテルシオの図です。灰色が槍兵、オレンジと赤が銃兵です。

銃剣の活躍と衰退

従来の銃兵は、基本的に他の兵科の援護を行う戦場の脇役でした。しかし銃剣が発明された事で銃兵も白兵戦ができるようになり、槍兵なしで戦う事ができるようになりました。銃剣の発明によって、ほとんどの歩兵が銃と銃剣を装備して戦うようになっていきます。

ナポレオン戦争中の1815年のワーテルローの戦いでは、ネイ元帥率いるフランス軍の騎兵部隊がイギリス軍の歩兵の方陣に向けて突撃しましたが、銃剣に阻まれて大きな被害を与えられないまま壊滅してしまいました。

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重要な発明だった銃剣ですが、銃の性能が上がり、白兵戦の機会が減るにつれて使われる機会が減っていきました。19世紀にはライフリング(銃身に溝を彫り、その溝に沿って銃弾を回転させて撃ち出すことで、弾道を安定させる機構)を施した銃が普及して銃の射程と命中精度が大きく向上します。また後装式の銃(さっきのYouTube動画のように銃身の先からではなく、手元で弾を込める、現代の我々がよく知っているタイプの銃)が普及すると、弾の装填に必要な時間が短くなり、より頻繁に弾を撃てるようになりました。

アメリカ南北戦争中の1863年に行われたゲティスバーグの戦いでは、南軍がピケットの突撃と呼ばれる歩兵突撃を試みましたが、激しい銃撃や砲撃に晒され、大きな損害を出して失敗に終わりました。開国や明治維新によって銃剣が日本に伝わったのと大体同じぐらいの時代の出来事です。

旧日本軍は1894年にフランス式の銃剣術を廃止して独自の銃剣術を制定し、アジア太平洋戦争の際には竹槍の訓練にこの銃剣術が用いられました。銃剣術は大戦中の1940年に銃剣道と名前を改められ、現在でも自衛隊の訓練などに用いられています。

しかし、銃剣を戦闘で使う機会は兵器の進化と共に減っていきました。日露戦争第一次世界大戦機関銃が大規模に利用されるようになると歩兵による突撃は容易に撃退できるようになり、歩兵のライバルだった騎兵も時代遅れになりました。第二次世界大戦では旧日本軍は本土決戦を企図しましたが、空襲や海上封鎖などの地上戦以外の要因によって降伏を強いられました。

ただし現代において銃剣を使う機会が全くなくなったわけではなく、フォークランド紛争イラク戦争中のイギリス軍による銃剣突撃の成功事例などがあり、アメリカ海兵隊でも全ての隊員に対して銃剣格闘訓練が行われています。また、鉄条網を切断するためのワイヤーカッターとしての役割や、他者を威圧する機能などもあり、単なる武器として以外の用途もあります。

おわりに

銃剣は発明当初、画期的な武器でした。銃剣があれば、銃兵に近付いて白兵戦を試みてくる騎兵などの敵から身を守る事ができるので、銃兵のみで構成された歩兵部隊を編成する事ができるようになりました。
しかし、銃剣の発明それ自体を含む銃器の性能の向上の結果として、白兵戦の機会は減り、銃剣の重要性は低下していきました。日本式銃剣術が制定されたのは1894年だそうですが、この時点ですでに銃剣は重要な武器ではなくなっていました。
というわけで、これから銃剣道を学ぶ中学生の皆さんはナポレオン戦争の時代の歩兵に思いを馳せ、ネイ元帥率いる大陸軍の騎兵突撃を受け止める気持ちでやっていくと楽しいと思います。
これぐらいの時代の軍事史に関しては、機会があったらまた何か書いてみたいと思うので、その時は読んで頂けると幸いです。それではまた、アラスカ4世をよろしくお願いします。

騎士団について解説する 2、遷ろう聖ヨハネ騎士団編

こんにちは。アラスカ4世です。騎士団シリーズ第二回目の今回は、聖ヨハネ騎士団について解説していきます。

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前回はテンプル騎士団の記事を書きました。次回はチュートン騎士団の記事を書く予定です。前回はテンプル騎士団の固有事例だけでなく、そもそも騎士団とは何か?みたいな事を書いたので、読んでない方は読むと今回の記事の内容をより簡単に理解できるようになるかもしれません。読んでみることをオススメします。

設立当初

1023年、イタリアの港町アマルフィの商人がエルサレム洗礼者ヨハネ修道院の跡に病院を兼ねた巡礼者宿泊所を設立しました。1099年に十字軍がエルサレムを占領した後の1119年、この宿泊所は教皇によって騎士修道会として承認され、宗教騎士団としての活動を始めました。こうして発足した聖ヨハネ騎士団エルサレム王国などの十字軍国家を守るための戦いで活躍する一方で、病院や宿泊所の運営も熱心に行いました。そのため、「ホスピタル騎士団」とも呼ばれていました。

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十字軍国家の滅亡後

聖ヨハネ騎士団や前回取り上げたテンプル騎士団などの奮闘にもかかわらず1187年にエルサレム、1291年にアッコンが陥落してエルサレム王国が滅亡、カトリック勢力は中東における足がかりを失ってしまいました。
前回取り上げたテンプル騎士団はこれによって聖地の防衛という存在意義を失い、資産を欲していたフランス王フィリップ4世によって1307年に粛清され、壊滅してしまいました。一方聖ヨハネ騎士団は、キプロス島を経て1309年にロードス島に移り、ここでイスラム教徒との戦いを続けることにしました。

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14世紀ごろの地中海東部の地図です。十字軍が失敗に終わり、イスラム教徒の勢力が拡大しています。しかしキプロス島ロードス島ギリシャなどは今のところキリスト教徒の手にあります。

ロードス島

当初中東に3つあった大きな騎士団のうち、テンプル騎士団は壊滅、チュートン騎士団は活動の場を東ヨーロッパに移しました(詳しくは次回の記事で書きます)。このため聖ヨハネ騎士団は中東でイスラム教徒と戦う唯一の騎士修道会となり、ヨーロッパ諸国では多くの寄進を得られるようになりました。また1307年に膨大な資産を持っていたテンプル騎士団が解体された時は、資産の多くを聖ヨハネ騎士団が継承することになり、金回りが良くなりました。そして海軍や海賊としての活動を行い、イスラム教徒の商船を悩ませました。

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この頃、急速に勢力を伸ばしつつあったイスラム教国がオスマン帝国でした。ロードス島に隣接するアナトリア半島(現在のトルコ)で勃興した彼らはバルカン半島にも進出し、14世紀後半にはビザンツ帝国を従属させるに至りました。1402年にティム―ル帝国とのアンカラの戦いで敗れて一度衰退したものの、勢力を立て直して更なる拡大を続け、1453年にはビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを攻略します。これで古代から続いてきたローマ帝国が完全に滅亡し、中世から近世に至る歴史上のターニングポイントの一つになります。

オスマン帝国領に隣接するロードス島に拠点を構え、イスラム教徒との聖戦を標榜し海賊活動を行う聖ヨハネ騎士団は当然、これとの対決を強いられます。オスマン帝国は1480年にロードス島を攻撃しますが、聖ヨハネ騎士団は撃退に成功しました。
オスマン帝国は1522年に20万人の大軍で再度攻めてきて、今度は勝てませんでした。聖ヨハネ騎士団は、ロードス島オスマン帝国に明け渡すという条件で休戦します。

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マルタ島

ロードス島を失った聖ヨハネ騎士団は、ハプスブルク家からシチリア島の沖にあるマルタ島を借り受け、ここを本拠にしました。ハプスブルグ家の当主で神聖ローマ皇帝兼スペイン王のカール5世とは、島を借りる対価として毎年鷹一羽を献上するという契約を結びました。

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15世紀頃の南ヨーロッパのざっくりした地図です。聖ヨハネ騎士団マルタ島を貸与したハプスブルク家のカール5世は神聖ローマ皇帝、スペイン王、オーストリア大公、ブルゴーニュ公などを兼任し巨大な勢力を構築しましたが、オスマン帝国フランス王国などと対立していました。


1565年にはオスマン帝国がまた攻めてきますが、防衛に成功しました。1571年にはレパントの海戦が行われ、オスマン帝国の艦隊がスペイン、ジェノヴァヴェネツィア教皇領、聖ヨハネ騎士団などのカトリック教国の連合艦隊と交戦し、カトリック諸国側が大勝しました。急速に版図を拡大し、ヨーロッパのキリスト教諸国にとっての重大な脅威と見なされてきたオスマン帝国は停滞期に入り、イスラム教国からキリスト教世界を守るために戦ってきた聖ヨハネ騎士団は存在意義と力を減じていくことになりました。

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聖ヨハネ騎士団マルタ島から追い出したのは、フランスのナポレオンでした。1798年、エジプト遠征の途上でナポレオンはマルタ島を占領し、その後エジプトに向かいました。ナポレオンは一時はエジプトの主要部を征服したものの、イギリスとのアブキール湾の海戦に敗れて制海権を失い、マルタ島イギリスによって占領されました。

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1802年に英仏間でアミアンの和約が結ばれ、講和に際してイギリスはマルタ島聖ヨハネ騎士団に返還する事が取り決められたのですが、この協定は履行されず、1803年に英仏は戦争を再開しました。そしてマルタ島は地中海の戦略上の拠点としてイギリスに支配され続け、第二次世界大戦中にはイタリアとドイツからの激しい攻撃に晒されました。1964年に独立し、現在はマルタ共和国になっています。

聖ヨハネ騎士団のその後

マルタ島を失った聖ヨハネ騎士団は領土を持った国ではなくなりましたが、現在でも医療団体としての活動を続けています。また一部の国々から「主権実体」として承認されており、ローマにある騎士団本部はイタリア政府によって治外法権が認められています。

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遷ろう聖ヨハネ騎士団編はこれで終わりです。聖ヨハネ騎士団は大きな勢力を誇った騎士団ではあるのですが、フィクション作品などにはテンプル騎士団チュートン騎士団ほど頻繁には登場しないと思います。現在も存続しているのであんまり勝手な事は書けないし、チュートン騎士団ほど外連味が強くないので。逆に、異端認定されて滅びた経緯を持つテンプル騎士団はなんでも好き勝手に書けるので便利ですね。
その代わり、聖ヨハネ騎士団塩野七生の書いたロードス島攻防記という本で詳しく取り扱われています。興味のある人は読んでください。 

ロードス島攻防記 (新潮文庫)

ロードス島攻防記 (新潮文庫)

 

 

さて、次回はチュートン騎士団編を予定しています。チュートン騎士団、別名ドイツ騎士団は東欧で異教徒やスラブ人と戦い続けたドイツ人の皆さんです。プロイセンの原型になった存在でもあり、中二心をくすぐられるというか、ドイツの中二成分の多くはこの騎士団が元になっているいえます。次回もお楽しみに!

騎士団について解説する 1、顕れるテンプル騎士団編

こんにちは。アサシンクリードが映画化された事にさっき気付いたアラスカ4世です。それはそうと、『騎士団長殺し』という小説が出版されたらしいので、今回から3回に分けて中世ヨーロッパで成立した宗教騎士団について記事を書きます。今回はテンプル騎士団です。次回とその次は、聖ヨハネ騎士団チュートン騎士団の記事を書く予定です。

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概要

テンプル騎士団は1119年に創設され、高い士気と良質な装備によって中世最強の騎士団として知られるようになりました。また莫大な資産を保有し、金融活動を活発に行いました。しかしこの資産を欲するフランス王フィリップ4世によって騎士団は1307年、冤罪によって摘発され、異端審問を経て解散させられてしまいました。

設立の経緯

テンプル騎士団創設の約25年前である1095年、ローマ教皇ウルバヌス2世は第一回十字軍の結成を呼びかけ、貴族や諸侯を含む多くの人々がこれに参加しました。

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十字軍はイスラム教徒とのいくつかの戦いを経て1099年に聖地エルサレムを占領し、当初の目的を果たすことに成功しました。
十字軍に参加した人々の多くはこれに満足し、ヨーロッパに帰りました。そして故郷で英雄として賞賛されました。ヨーロッパと比べて豊かだった中東の略奪品によって金も儲け、幸せに暮らしました。よかったですね。

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さて、問題は征服した土地に残った人々です。十字軍はエルサレム王国などの十字軍国家と呼ばれる国々を建国しましたが、周囲をイスラム教の国々に囲まれていました。十字軍が来る前からいた住民はイスラム教徒やカトリック以外のキリスト教徒ばかりで、文化も違うので協力を得るのが難しい。そしてこれまで戦ってくれた十字軍の騎士のほとんどはヨーロッパに帰ってしまいました。誰も国を守ってくれません。

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そこで結成されたのが、これから紹介するテンプル騎士団聖ヨハネ騎士団チュートン騎士団などの騎士修道会でした。

騎士修道会とは?そもそも騎士団とは?

騎士修道会とは、構成員が戦闘も行うタイプの修道会です。つまり騎士をやりながら修道もやる会ということです。騎士や修道会がなんなのかわからないとよくわからないですね。ですからそこの所から解説します。

まず修道会について。修道会はキリスト教信者の組織です。構成員は修道士(女性の場合は修道女)と呼ばれ、修道院などで集団生活を送ります。妻帯を禁じられ、会則に則って神のために禁欲的に暮らしました。ベネディクト会やクリュニー会、トラピスト会、16世紀に結成されたイエズス会などの修道会があります。一部の修道会は多くの富を蓄え、本がとても高価だった時代に図書館を作って貴重な知識を保存、活用したり、豪華な大聖堂を建てたりしました。また、清貧を重んじて私有財産の所有を禁止した修道会もあります。色々な修道会がありますが、ほとんどは神のために奉仕する意識の高い集団でした。中世の頃ほど規模は大きくなく、規則や活動内容も中世の頃とは違いますが、現在でも修道会は存在します。

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騎士団は、騎士の団です。歴史上最初に作られた騎士団は、この記事で触れているテンプル騎士団などの騎士修道会です。それ以前は、騎士団と呼ばれる組織は存在していませんでした。
騎士修道会が成立し、それがかっこよかったので貴族達が真似をしてガーター騎士団金羊毛騎士団などの世俗騎士団を結成しました。しかしこれらは騎士道精神やキリスト教精神を守ろうとする貴族のコミュニティーに過ぎず、ガーター騎士団の当初の定員が26名、金羊毛騎士団が31名など、軍事組織としての実態はありませんでした。
したがって、中世ヨーロッパ風ファンタジー小説とかに出てくる「騎士団」のうち、宗教的なバックボーンがないものは、正確なヨーロッパの歴史をベースにして創作されたものではない可能性が高く、ジャガイモ警察にとっての突っ込みどころになります。
従来の騎士は特定の領主に忠誠を誓い、領主のために戦いました。これに対して騎士修道会の騎士は世俗の主君を持たず、半ば独立した政治勢力として振る舞いました。
どちらの騎士の場合も、馬術や馬上戦闘術を習得するための長い訓練や甲冑や馬などの高価な装備が必要なため、維持には高いコストがかかります。しかし甲冑を装備した騎士による突撃は非常に強力であり、戦いの花形とみなされていました。全ての騎士が馬上戦闘をしたわけではありませんが、馬上戦闘をしない騎士も高い練度と強力な装備を有していました。

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顕れるテンプル騎士団

さて、話をテンプル騎士団に戻します。テンプル騎士団は1119年、ユーグ・ド・パイヤンと9人の騎士達によって結成されました。かつてソロモン王が建てたエルサレム神殿(Temple in Jerusalem)の跡地である神殿の丘に本部が置かれたことから、テンプル騎士団(Knights Templar)と呼ばれるようになりました。

テンプル騎士団には宗教的な情熱に燃える騎士達が多く入会し、その際に持っていた土地や資産を騎士団に寄進しました。またフランスなどの国王や大貴族も、入会はしませんでしたが広大な土地を寄進し、テンプル騎士団は膨大な資産を保有することになりました。
しかも教皇から国境通過の自由、課税の禁止、教皇以外の君主や司教への服従の義務の免除などの特権を与えられたので、勢力を拡大することができました。

金融業を始めるテンプル騎士団

莫大な資産を持つようになったテンプル騎士団は、為替取引などの金融業も始めました。為替取引の利用者は、現金を用いずに為替手形を用いて遠隔地と安全に取引ができるようになります。これは、治安の悪い中世においてとても重宝しました。
特に、自己宛為替手形を用いて自分宛に手形を出すことで、大金を持たずにエルサレムに巡礼することができるようになりました。

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(自己宛為替手形を使う場合、テンプル騎士団を介してエルサレムなどの目的地に送金を行います。そして目的地に着いたらテンプル騎士団の支店からお金を受け取ります。こうすることで、移動中にお金を奪われたり盗まれたりするリスクを回避できます。)


また、フランス王国の国庫を管理したり、資金を融資したりもしました。課税免除などの特権に守られながらこうした活動を行っていた騎士団は、商人などから妬まれるようになりました。

テンプル騎士団の戦い

テンプル騎士団はこうして得た潤沢な資金を用いて高価な装備を調達し、団員に充分な訓練を施したました。宗教的情熱に燃える団員らは決して降伏せず、死を選ぶ事で天国に向かう事を誓いました。高い士気、装備、練度を誇ったテンプル騎士団は、中世最強の騎士団として知られるようになりました。

12世紀後半、イスラム教徒の指導者サラディンアイユーブ朝を建国し、エルサレム王国への攻撃を行いました。テンプル騎士団はこれと戦いますが、総長のジェラール・ド・リデフォールは敗れて捕虜になってしまいます。彼は一度解放された後、再度捕虜となって処刑されました。

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これによって、決して降伏しないとされていた騎士団の評判は大きく落ちてしまいます。さらに1291年にはエルサレム王国最後の拠点アッコンが陥落し、カトリック勢力は中東からの撤退を強いられました。これによって、聖地エルサレムの防衛を目的として結成されたテンプル騎士団は、存在意義を失ってしまいます。

テンプル騎士団の滅亡

1307年、フランス王フィリップ4世はフランス全土のテンプル騎士団の会員を異端の容疑で一斉に逮捕します。王の息がかかった異端審問官たちは拷問によって自白を引き出し、フランス王の傀儡だった教皇クレメンス5世テンプル騎士団の活動を禁止しました。これによってテンプル騎士団は滅亡し、4人の幹部が火刑に処されました。フィリップ4世は騎士団の資産を接収し、イングランドとの戦いに利用しました。

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フィリップ4世はこの他にも教皇ボニファティウス8世を捕縛して憤死させ(アナーニ事件)、教皇庁をローマから南仏のアヴィニョンに移転させるなど、手段を選ばずにフランスの中央集権化を推し進めました。

その後

フランス王による粛清で突如滅亡したテンプル騎士団は、入会儀式の内容が秘密とされていた事などもあって謎めいたイメージを持ち、秘密結社などとしてアサシンクリードダ・ヴィンチ・コードなどの様々なフィクション作品に登場します。
よく陰謀論などの黒幕として登場するフリーメイソンは、テンプル騎士団の残党によって作られたと主張する人が多くいます。

余談

2014年2月、山梨県などで豪雪による災害が発生する中、安倍首相が赤坂の天ぷら屋で会食を行いました。ジャーナリストの津田大介氏がこれをTwitterで批判したところ、津田大介氏を風刺するコラ画像がネットで拡散し、天ぷら騎士団という言葉が生まれました。

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さて、天ぷら騎士団の天ぷらなのですが、ポルトガル語由来の言葉なのだそうです。ポルトガル語のどういう言葉が語源なのかについては諸説あるのですが、"templo"つまり寺の精進料理だった事が起源だとする説があります。この説が正しいとすると、エルサレム神殿Temple in Jerusalem)の跡地を本部にしていたテンプル騎士団(Knights Templar)は、天ぷら騎士団と語源的に一緒だったことになります。

さて、次は「遷ろう聖ヨハネ騎士団」を予定しています。聖ヨハネ騎士団は急に滅びてしまったテンプル騎士団と違って、ロードス島マルタ島などに拠点を移しながら現代まで存続しているしぶとい騎士団です。次回もお楽しみに!

ハシシで洗脳? テロ集団? 暗殺教団の謎を追う

ご無沙汰してしまいすみません。アラスカ4世です。金正男が暗殺された事が記憶に新しい昨今ですが、今日は暗殺の話をしようと思います。

英語で暗殺者を意味する"asassin"という単語は、アラビア語大麻樹脂を意味する"Hashishi"という単語が元になって成立しました。これは、十字軍の行われた12世紀ごろの中東に麻薬によって人を洗脳して暗殺者に仕立て上げ、敵の要人を暗殺する暗殺教団が存在すると考えられていたからです。

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山の爺

暗殺教団の話は、アジア各地に24年間滞在したマルコ・ポーロが著書『東方見聞録』の中で言及した「山の爺」のエピソードによってヨーロッパに広がりました。それは、こんな話です。
ペルシャの山中に「山の爺」がおり、楽園のような素晴らしい秘密の庭園を築きました。そして外部の若者を麻薬で眠らせ、庭園に連れて行きます。
薬物によって眠らされていた若者が目覚めると、美しい庭園にいます。若者は秘密の麻薬を与えられ、美女と遊び、庭園に実っているあらゆる種類の果物を味わい、快楽の限りを尽くします。

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そして再び麻薬で眠らされ、気が付くと元いた場所に戻っています。再び楽園に行きたいと望む若者に、山の爺は暗殺を命じ、若者は命と引き替えに暗殺を実行します。死後に楽園に行けると信じながら。

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ハッサン・ビン・サバーフ

この話のモデルになった暗殺者集団は、実在していました。ただし、麻薬によって暗殺者を洗脳していたというのは史実ではなかったようです。暗殺者集団を創設したのは、ハッサン・ビン・サバーフという男でした。1030年ごろにペルシャイスラムシーア派の家に生まれた彼は、30代の時にシーア派の分派であるイスマーイール派に忠誠を誓います。

当時のイスラム教圏では、現代と同じように多くの国がスンニ派シーア派でした。その一方で、イスマーイール派は909年にエジプトでファーティマ朝を建国していました。

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暗殺教団が活躍した1100年ごろのものすごくざっくりとした中東の地図です。一時期イスラム教圏のほとんどを支配していたアッバース朝は弱体化しましたが、名目上はカリフとしての高い権威を保っていました。地図は多分どこか間違えていると思いますが、この地図に関しては細かいミスはご容赦ください。

ハッサンはファーティマ朝に仕えるためにエジプトに向かったのですが、イスマーイール派の内部対立に巻き込まれて死刑を宣告されました。しかし国外追放に減刑され、エジプトを後にしました。

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ペルシャに戻ったハッサンは、権力を手に入れようとします。そのためにアラムートという場所にあるスンニ派イスラム教徒が所有している城塞に目を付けました。彼はまず城塞の周囲の村々をイスマーイル派に改宗させ、さらに城の召使いも改宗させます。そしてスンニ派の城主に追放を宣告し、城を手に入れました。

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ハッサンはスンニ派アッバース朝と、ペルシャを支配しているセルジューク朝を滅ぼすという野望を持ち、ペルシャとシリアのいくつかの山城を支配しました。しかし、ペルシャ全土を支配するセルジューク朝と比べると、数の面で大きく劣っていました。

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そこで1092年、ハッサンの部下の暗殺者がセルジューク朝の宰相ニザール・アルムルクを暗殺します。以後ハッサンは敵対する要人を次々に暗殺していき、歴史上初のテロリスト集団が誕生しました。彼らはハッサンを国外追放したエジプトの宰相アル・アフダールや、十字軍で活躍し、エルサレム王国の王になるはずだったモンフェラート候コンラッド1世なども暗殺し、中東の国々から恐れられるようになります。公の場で、ハッサンらイスマーイル派を批判する事は難しくなりました。

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しかし暗殺によって周囲から恐れられ、憎まれ、警戒された暗殺教団は勢力を大きく拡大する事は出来ず、結局モンゴル帝国やエジプトのマムルーク朝によって滅ぼされてしまいました。1273年、シリアにあった暗殺教団最後の城塞がマムルーク朝に降伏し、政治勢力としての教団は消滅しました。

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暗殺教団の登場する作品

この暗殺教団の存在は、マルコ・ポーロによってヨーロッパに広められ、誇張された形で広まり続けました。
アサシンクリードというゲームは暗殺教団をモチーフにしていますし、fateにもアサシンのサーヴァントとして山の爺が登場します。

また、19世紀にアレクサンドル・デュマが書いた傑作小説『モンテ・クリスト伯』にも暗殺教団の話が登場します。
モンテ・クリスト伯』は、陰謀によって投獄された主人公のエドモン・ダンテスが脱獄してモンテ・クリスト伯爵を名乗り、自らを陥れた3人への復讐を行う、という話なのですが、モンテクリスト伯はなんと、『山の爺』の話をしながら仲間と共にハシシ入りのジャムを舐め、ドラッグパーティーをするのです。アラスカ4世はたまたま中学生の時にこれを読んだので、びっくりしました。

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以上、暗殺教団の話でした。次は、十字軍の時代に誕生した宗教騎士団(テンプル騎士団聖ヨハネ騎士団チュートン騎士団)の記事を書こうと考えています。書けたらそれも読んでもらえるとうれしいです。